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1984-1985 SEASON

今でこそ数多くの国で放送され、NBAに在籍する選手も、アメリカ人選手が占める割合は10年前と比べても大幅に減少している。

だがそんなNBAも長らくアメリカのみで広まっていたスポーツの1つであり、白人のみがプレイしていた時代から黒人選手が大半を占めるようになり、やがて外国籍選手が現れる。

驚くことに1970年代ではリーグ創設から20年以上経っているにも関わらずファイナルすら生放送は無く、深夜帯の録画放送のみだったのだ。

そんなNBAが世界に広まったきっかけは?

どうやって広まったのか?

なぜ爆発的な人気を得たのか?

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そんな疑問を浮かべながら探ると行き着く先は『1984-1985 season』である。

このシーズンこそがグローバル化の原点であり、NBAが大きく動いた年だ。

何故NBAグローバル化が進み、世界でも有数の成功を収めたリーグへと変貌したのか。

今回は様々な視点からその要因を見ていこう。

 

2人の救世主

1984-1985の話に入る前に1つ、大切な前置きが必要である。

それは、前季となる1983-1984シーズンに重要な出来事があったからだ。

1984年 5月27日、この日NBA史上初めてファイナルの全試合が全米で生中継された。

何故それほどまでに注目されたのか。

それは大学時代に全米の注目を集めた

『Magic Johnson VS Larry Bird』という対戦がNBAで、それも当時既にライバルチームと称されていたLALvsBOSというマッチになったからだ。

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バードとマジックが加入する以前のNBAは、麻薬の蔓延やスター選手の不足により完全に人気を失っていた。

さらに、当時の選手会と協会は度々衝突を繰り返し、複数の裁判を抱え続けるような状態だった。

薬物に手を染めるスター選手達、選手会と協会では裁判続き、生中継など全く無かったリーグに誰が注目するだろうか。

そんな中でカレッジで全米の注目を集め、その世間の注目をそのままNBAに引っ張り込んだのは紛れもなくマジック&バードの2人だった。

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そして彼らはそれぞれLALとBOSに導かれるように加入し、ファイナルという大舞台で、しかも初の全米生中継される中で手に汗握る接戦を繰り広げたことが、翌季を盛り上げる大きな要因となったのは間違いないだろう。

 

"神"の登場

この1984-1985シーズン開幕前のドラフトはNBA史上最高のドラフトとも言われており、とにかく名だたる選手が揃っている。1位のアキーム・オラジュワンを筆頭に、ジョン・ストックトンチャールズ・バークレー、そして後にバスケの神様と称されるマイケル・ジョーダンが指名されている。

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ノースカロライナ大を全米制覇へ導いた"ザ・ショット"で一気にスターとなったジョーダンも、格別な期待をされた選手ではなく、むしろそれはオラジュワンに向けられていた。

だがジョーダンは普通のスタープレイヤーでは無かった。見る者を惹きつける特別な魅力を持ち、中でも空中で舞う姿は世界を魅了した。

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実際、ドラフト後のオリンピックで金メダル獲得に貢献したジョーダンに対し、ブルズは当時の新人には考えられない7年600万ドルという契約を結び、その大きすぎる期待は周囲に疑問を持たせた。

だがいざ開幕してみればその疑問は吹き飛ぶほど、ジョーダンは圧倒的だった。

当時低迷していたブルズの前季観客動員数は260,950人から487,370人という脅威の87%増加を記録。アウェイ戦にも影響を及ぼし、普段は空席だらけの弱小球団との試合ですら満席にさせるほどジョーダンは多くの人を虜にした。

バードとマジックの2人の救世主がバスケへの注目を集め、ジョーダンという後に"神"と呼ばれる存在が、アメリカ中をバスケの虜にしたのだ。

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個性派揃いのスター達

ジョーダンという存在はただのスター選手に留まらず、NBAにとって宝のような存在だったが、圧倒的な1つの存在が王者であり続けてはいずれ面白くなくなってしまう。

だが、ジョーダンと同じ94年ドラフトのオラジュワンやバークレーストックトンらに加え、彼らより数年早くNBA入りしたアイザイア・トーマスやドミニク・ウィルキンス、クライド・ドレクスラーなど多くのスターがいた。

何より重要なのはこのスター達が様々な球団に散らばっていたことだ。

上記の選手達は全員がそれぞれ異なるチームに在籍し、チームを牽引していた。

これによりライバル関係が生成され、POやファイナルをより熱い試合へと変化させたのだ。

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"革命家"の登場

ジョーダンが現れようとも、スター揃いのリーグになろうとも、世界へ発信させるだけの手段がNBAには無ければ意味は無い。

だが、この完璧とも言えるタイミングに革命家が現れた。

革命家の名はデビッド・スターン。

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まだ協会と選手会が裁判で争っていた頃、外部顧問弁護士としてNBAに関わるようになったスターンは、1978年にNBAにおける法務部門の立ち上げに協力。1980年にはコミッショナーに次ぐ地位となる協会の取締役副社長に就任。

スピード出世を続けるスターンは1983年には頑固な選手会との長い対立に終止符を打ち、NBA史上初となる労使協定の締結に至らせた。

長く意見相違が続いていた選手会との関係を見事に取り持つ事に成功したスターンは、その腕を買われ1984年2月、早くも第4代コミッショナーに就任。

ここから彼の革命が始まったのだ。

スターンが起こした1つの革命はリーグの勢力分散だった。労使協定締結時にサラリーキャップ制度の導入を決定していたのだ。

現在でこそ当たり前のように聞くサラリーキャップだが、制度が導入されたのはこの1984年であり、それ以前は契約額の上限が無く、必然的に裕福な球団ほどスターを獲得しやすい状態だったのだ。

逆に貧困状態の球団は、例え若手をスターに育て上げようとも、実力に見合った金額を支払えなければ他球団に奪われてしまう為、悪循環から脱却出来ない状況にあった。

レイカーズセルティックスの黄金時代か長く続いたのは、サラリーキャップ制度が無かったことも要因の1つであり、一般的にサラリーキャップ制度を導入したスポーツリーグで連覇し続けることは困難とされている。

このサラリーキャップ制度により、各チームの選手年俸合計額に上限が設定され、資金が少ない球団にとって不利だった状況を改善させたのだ。

ちなみに余談だが、サラリーキャップ制度はアメリカ4大スポーツの中でもNBAが初めて導入したものであり、実はこの年の導入は正確には初めてではない。1940年代に1シーズンのみ施行されすぐに廃止された歴史があるのだ。

それ以降、1984年の再導入まで1度も施行されることは無かった。

この導入初年度は制限金額がリーグ総収益の53%、サラリーキャップは360万ドルだった。

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では話を戻そう。

サラリーキャップ制度に続きスターンが着手したのは、選手達から薬物を切り離すことだった。

当時の選手会はやや横暴で、協会に対して高圧的だったこともあり、薬物規制に関して協会側も厳しい取り締まりを実行に移せなかったのだ。

薬物使用の無法地帯と化していたNBAの人気向上の為に薬物に対する処罰強化は必須だと考えたのだ。

だが、薬物使用した選手をただ切り捨てるような規則を作るのではなく、スターンは治療の支援を優先させた。

NBAは薬物治療プログラムを薬物依存の選手に提供し、プログラムに取り組む姿勢を示す選手には復活の機会を与え、プログラムを拒否する選手にはリーグ追放の処分を与えた。

これにより選手達から薬物を切り離し、リーグの悪印象を払拭することに成功した。

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だが、NBAはもう1つ大きな問題を抱えていた。

人気低迷が原因で財政難にあったのだ。

1983年には全23チーム中17チームが赤字状態で、財政難に陥ったチームはスター獲得どころかチームの存続すら危機になることも少なくなく、スターンはリーグの人気向上のみならず、収益増加にも力を注いだ。

そんなスターンが収益を増やす為に最も注力したのがテレビ放送だった。

先述通り、1984年にNBA史上初のファイナル生中継を行い見事成功を収めたのもスターンの策略だったのだ。

ファイナル生中継の成功もあり、NBAはTBS(もちろんアメリカの)と2年間2000万ドルの契約を結ぶことに成功した。

だが、当時は攻守が激しく入れ替わるバスケットボールは中継に不向きとされており、ゴールとゴールを行き来するだけのカメラワークでは見る側にとって試合の熱が伝わらない。そこでスターンは様々なカメラアングルにこだわり、立体感のある放送にこだわった。さらに選手達には可能な限り取材を受けるよう協力を依頼し、NBAエンターテイメント部門も立ち上げた。

スターンによる積極的な売り込みは見事に成功し、各局がNBA専門番組を制作するきっかけとなった。

スターンの見事な策略と同時に、ジョーダンはドラフト指名されたオフの間に、オリンピックでアメリカ代表として金メダルを獲得していた。

特にバード、マジック、ジョーダンの3人は世界に名を轟かせ、世界各国にファンを持つようになったのだ。

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以降、スターンは更に革命を起こしていくのだが、それらについてはまた違う機会に記事にしたいと思うので今回は省略。

ともあれ、スターンのコミッショナー就任とジョーダンの登場が同時期だったことは、人気が底をついていたNBAにとって奇跡と言ってもいいだろう。

 

この目まぐるしいほどの環境の変化が起き、NBAは大きな進化を遂げた。

実際、翌季のドラフトでは国際化の兆しが見え始めたように、1984-1985シーズンはリーグ大躍進の初年度と言っても過言ではない。

 

如何だっただろうか?

私自身、ジョーダンをリアルに見た世代では無いのであまりジョーダンに関しては安易に語りたくないと思っているのだが、バスケやNBAに無関心だった人達をそれだけ大勢 虜にしたとなると、やはりただのスーパースター以上の価値はあったのだと感じてしまう。

一般的にジョーダンが世界へNBAの人気を広めたと言われているが、実際にはスターンとジョーダンの2人が広めたと言っても過言では無い。

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そしてそれら複数の出来事のターニングポイントを探った時、このシーズンに辿り着くのだ。

 

今季ではオールスターのフォーマット変更により、現コミッショナーのアダム・シルバーは1つの改革に成功したと言える。POのフォーマット変更案も出始めており、もしこれが成立すれば良くなるのか悪くなるのかは定かではないが、NBAの歴史に大きな変化をつけることは間違いない。

 

私達ファンはその時、批判の声を挙げるだけでなく、時代の変化を味わうことも1つの楽しみ方かもしれないと僕は思う。

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