前回のBill Russellに続く8連覇列伝第2弾の今回はレッド・アワーバック(以降Redと表記)。
RedはBoston Celticsをアメリカプロスポーツ界屈指の名門へと変貌させた中心人物である。
今回は8連覇という功績を裏で支えた
Red Auerbachという偉大なる人物を葉巻片手に見ていこう。
1.キャリアの始まり
本名Arnold Jacob Auerbach(アーノルド・ジェイコブ・アワーバック)はニューヨークのブルックリンで生まれた。
幼い頃からバスケットというスポーツに取り組んでいた彼は高校生になる頃には有名な選手となっていた。だが、彼が目指すのはプロバスケ選手ではなく、教師かバスケの監督だった。
短大に進んだ後に2年生からジョージ・ワシントン大に編入。大学を卒業してすぐにRedはワシントン市内の高校で監督を務めながら、ハリスバーグ・セネターズ(現在のMLB傘下リーグに同名チームがあるらしいが無関係)というチームで選手としてプレイしていた。
↑現在MLB傘下にあるセネターズ
その後 軍役により海軍に入ったRedが与えられた職はバスケチームを指揮することだった。
大学卒業後から監督業をしていた彼はBAA(後のNBA)のワシントン・キャピトルズのHCに就任。
後に世界最高峰の舞台となるこのリーグで、Redのキャリアがスタートした。
2.プロの世界へ
迎えた1946-1947シーズンはBAAというリーグ自体創設1年目であり、キャピトルズもチームとして1年目だった。そんな中でRedは49勝11敗という好成績を残し、当時11チームがBAAに所属している中でリーグ首位の座についた。しかしPOでは準決勝で敗退。
ここで少し脱線話なのだが、この当時のPOではディビジョン(今で言うカンファレンス)1位の2チームは準々決勝を免除される。この免除は非常に有利に思えるがそうでもない。当時の方式では順当に高いシードのチームが勝ち残った場合、何故か準決勝で勝率トップ2チームが対戦するのだ。
11チームしか存在しなかった当時ではディビジョンを分けてのトーナメント方式は採用できないだろうが、準決勝にして実質のファイナルが行われるのは現代を知る我々からすると違和感がある。
これにより、Red率いるイースタンディビジョン1位のキャピトルズは準決勝でのウエスタン・ディビジョン1位のシカゴ・スタッグズと対戦し敗北。
リーグ2位のスタッグズですら39勝で、RSを圧倒的勝率で過ごしたキャピトルズとは10勝もの差があったが、キャピトルズはファイナルに辿り着くことすら出来なかった。
2年目のキャピトルズは大きく調子を落とし、ディビジョン2位タイ(といってもタイチームが3チームもあった)。
この年にはまだタイブレークに関するルールが無く、タイブレークを決める方法はシンプルに直接対決を1試合行うのである。
キャピトルズはタイブレークゲームで前季POで対戦したスタッグズと対決。
しかし、またしてもスタッグズに敗れたキャピトルズはPOに出場出来なかった。
3年目となる1948-1949シーズンではキャピトルズは38勝22敗という好成績で再びディビジョン首位の座を獲得。
POはこのシーズンから方式が改正され、全チーム1回戦から開始となった。
1回戦ではフィラデルフィア・ウォリアーズを2連勝で破り、続いてニューヨーク・ニックスも2勝1敗で撃破。
3年目にしてファイナルに辿り着いたのだった。
このシーズンのレイカーズはファイナルまで全勝で辿り着いている。その理由はこの年加入した最強のルーキーによるものだった。
『Mr.Basketball』と呼ばれるジョージ・マイカン、彼がいたのだ。
4戦先勝のファイナルでレイカーズ相手にいきなり3連敗。第1戦42点(レイカーズ全体で88点)、第3戦35点とまさに無敵状態のマイカンに為す術なくキャピトルズは全敗の可能性すら浮かび始めた。しかし20点差で敗北した第3戦で不測の事態が起きた。相手選手との接触でマイカンは手首を負傷したのだ。これにより異様に腫れ上がった手首のままマイカンはガチガチに固めて強行出場。
支配力が弱まったマイカンの影響もありキャピトルズは2連勝。
だが『Mr.Basketball』はそれほど甘く無かった。
手首を痛めているはずのマイカンは王手を掛けたまま迎えたホームゲームの第6戦で爆発。
9本のシュートとFT 11/12で29得点と負傷している新人とは思えない活躍で牽引。
Red率いるキャピトルズは突如リーグに現れた超新星のマイカンを倒せなかった。
この年Redはキャピトルズとの契約交渉で話が拗れ、チームを去ることとなった。
翌年の1949-1950シーズンが始まる前にはBAAがNBLを吸収。さらにBAAからNBAに改名され、NBAとしての記念すべき初シーズンだった。
所属チームは合併したことにより17チームとなったが、Redはシーズン開幕時は姿は無かった。
そんな中1つのチームから声が掛かる。
トライシティーズ・ブラックホークスだった。開幕から1勝6敗と散々だったホークスはHCを即解雇、そして雇われたのがRedだった。
しかしRedが指揮を執って以降でも28勝29敗と少し浮上したものの、良くはなかった(詳細は不明だが、恐らくタレント不足)。
ちなみにこのシーズンがRedにとってはキャリアを通して唯一負け越したシーズンである。
するとブラックホークスはチームを救えなかったRedにたった1年で見切りをつけ、何も伝えず突然トレード。
するとRedはトレード先でのコーチを辞職した。
だがRedに救いを求めるチームは他にもいた。NBA1年目を22勝46敗と散々に負け越したBoston Celticsだった。
3.時代との対立
1950年、前季にディビジョン最下位となったBOSのオーナーはRedをHC兼球団副社長(人事担当)として迎え入れた。
そして1950年ドラフト、ここに名を連ねる選手達の中にはボブ・クージーがいた。
知っての通り彼はBOSでPGとして黄金期を支えたメンバーの1人だ。
Redも優秀な選手を見極めて獲得する能力が後々評価されることとなるのだが、この時ばかりは少し違った。
Redは、大学時代にオールアメリカンにも選ばれているクージーを指名しようとはしていなかった。
何故なのか。それは彼のプレイスタイルにある。
スコアリングやパスセンスは秀でている一方で、当時普及していなかったビハインド・ザ・バックパスやノールックパスを多用していたのである。当時のバスケ界において実用性を認める意見は少なく、Redのみならずクージーが在籍していた大学のコーチすら批判的だった。
大学時代には出場時間を少し制限されており、Redがクージーにあまり興味を示さないのも無理はない。
そして1位指名権を持っていたBOSが指名したのは、チャック・シェアという選手。しかし、ここから運命的とも言える出来事が起こる。
クージーは3位でブラックホークスに指名されていた。しかしブラックホークスはクージーをスタッグスへトレード。
そしてクージーがトレードされた後にスタッグスは解散(この当時は経営難で解散するチームが多かった)。
そして元スタッグスの3選手を巡ってBOSとニックス、ウォリアーズでクジ引きとなった。この3チームが狙っていたのは2年前に得点王になっていたマックス・ザスフロスキーだった。
リーグで既にトップレベルの活躍をしている選手をクジ引きで手に入れられるのなら狙わないはずが無い。しかしザスフロスキーを当てたのはニックス、BOSにはクージーが加入することとなった。
トレード、チーム解散、クジ引き。
こうした3つの出来事が重なり、ドラフトではスルーした新人がBOSに加入することとなった。
さらにこのドラフトでは、Redが周囲を驚かせる出来事があった。
2巡目14位でBOSが指名したのはチャック・クーパー。
大学卒業後にエキシビションチームでプレイしていた彼は高いディフェンス力が持ち味で、特に派手なブロックを得意としている黒人選手だった。
彼の指名が何故、周囲を驚かせたのか。
それは彼が黒人だったからである。
当時のリーグに黒人など1人もいなかった。
そんな中で突然Redが黒人を指名したことにBOSの選手達は驚きを隠せなかった。しかしBOSのオーナーだったウォルター・ブラウンは『ストライプでもチェックでも水玉でも気にしない』と人種で人を区別せず、それはRedも同じだった。
ちなみにこの1950年ドラフトには他にも黒人選手が2人指名されている。
その内の1人ナサニエル・クリフトン(指名順位の記録がどこにも無い為 何位指名かは不明)は史上初のNBAチームと契約を結んだ黒人選手となり、もう1人のアール・ロイド(9巡目108位指名)はNBA公式戦に初めて出場した黒人選手である。
こうしてRedはNBA史上初の黒人選手をドラフト指名した人物として歴史に名を刻んだ。
さらにBOSにはもう1つ幸運な出来事があった。
セントルイス・ボンバーズで前季にルーキーながら平均16.1得点を記録していたエド・マコーレーが、ボンバーズが解散したことによりBOSに加入したのだ。
これによりドアマットチームだったBOSに期待の新人 クージー、伸び代満点の2年目 マコーレー、人事や采配に定評のあるRedの3人が加入した"新生BOS"の復活劇が始まる。
RedのBOS1年目となる1950-1951シーズン、39勝30敗でイースタンディビジョン2位。前季の22勝から17勝上乗せした事を考えると非常に将来に期待が持てるチームだった。
このシーズンからオールスターゲームが開催されるようになり、初代MVPに輝いたのは加入1年目のマコーレーだった。
リーグ全体で見ても4位の好成績を残したBOSには優勝候補との声すら挙がった。
だが、2戦先勝のPOではイースタンディビジョン3位のニックスに2試合連続14点差をつけられ、2連敗で呆気なくシーズンアウト。
続く1951-1952シーズン、開幕前にワシントン・キャピタルズからビル・シャーマン(後に殿堂入り)が移籍で加入。
チームは39勝でイースタンディビジョン2位と、前季と同じ成績でRSを終える。
オールNBA1stチームにクージーとマコーレーの2人選ばれる快挙を成し遂げたBOSだが、前季と同じ対戦相手であるニックス相手に2勝1敗でシリーズ敗退。
3年目となる1952-1953シーズンでは46勝を挙げるもイースタンディビジョン3位。
しかしPOではシラキュース・ナショナルズを2連勝で撃破。
迎えたディビジョンファイナル、またしても相手はニックスだった。3年連続3度目の対戦ということもありリベンジに燃えるBOSだが、1勝3敗で無念の敗退。
BOSには『成績は良いが優勝に近付けない中堅チーム』というイメージが定着し始めた。
そしてオフシーズンには、後に黄金期を支える選手の1人であるフランク・ラムジーをドラフト指名。
しかし、彼は1953-1954シーズンのBOSに姿を現すことはなかった。
カンザス大学の4年生だった時にカレッジバスケ界に八百長疑惑が浮かび、カンザス大学の関与が発覚、シーズン出場停止処分が下されたのだ。これにより4年生を丸々1年台無しにされたラムジーは大学でのラストシーズンを取り戻す為にケンタッキー大学に大学院生として戻る選択をしたことで、BOSに加入するのは翌シーズンに持ち越しとなった。
4.届かぬ王座
ドラフト指名したラムジーも加入しなくなったBOSは特に大きな補強も無いまま迎えた1953-1954シーズン、前季と同じくディビジョン3位だったが、POでは前年も対戦したナショナルズとの対戦で敗退。
そして1954-1955シーズン、NBAの歴史における最重要ルール変更が行われる。
『24秒ショットクロック』の導入である。
当時のNBAは異常とも言えるローペースな試合展開がリーグ全体に浸透してきており、NBA自体の人気が低迷。チーム数も減る一方であった。
実際に1953-1954シーズンではリーグ平均79.5点となり、ショットクロックも無くボールキープの時間帯が長いだけの試合を観客が望むはずがないのだ。そんな経緯があり、ショットクロックが導入されたのだった。
そして導入初年度となる1954-1955シーズンではリーグ平均得点が93.1まで上昇。初の90点超えとなった。
そんな目まぐるしい変化の中で、BOSはリーグ1位の101.5を記録。前季ですら87.7とリーグ1位の得点力を誇るBOSは、時代に反して速攻を得意とするチームだったため、ショットクロック導入がさらに得点力を増加させた。
速攻を得意とするBOSに合流したラムジーもルーキーながらシーズン平均27分出場時間で11.4点を記録し、主力としてチームの新たな武器となった。
42勝30敗を記録しディビジョン3位でPOに進出したBOSは、幾度となく立ちはだかってきたニックスを4度目にしてついに撃破。
しかし、現実はそう甘くない。ニックスに続いて、近年BOSのライバルとなりつつあるナショナルズと対戦。
ナショナルズには後に殿堂入りを果たすPF/Cのドルフ・シェイズがいた。当時ジョージ・マイカンをきっかけにセンター優勢時代ながらBOSにはそれほど強力なインサイドプレーヤーは存在していなかった。シェイズに圧倒されたBOSは1勝3敗で敗退。シェイズ率いるナショナルズは最終的にこのシーズンの王者となった。
1955-1956シーズン、ショットクロック導入2年目のリーグは平均得点が99.0得点まで上昇。しかしそれまでのリーグ全体の人気低迷が影響し、リーグ在籍チームはついに8チームまで減少。
逆に言えば、単純に考えると優勝出来る確率が高くなるのだがBOSには1つマイナス要素があった。前季にルーキーながら堂々たる活躍を見せたラムジーが兵役により1年以上の離脱することとなったのだ。
さらにBOSが在籍するイースタン・ディビジョンには前期王者のナショナルズがいた。
しかし当のナショナルズはBOSのラムジー離脱以上にマイナス要素があった。
ショットクロック導入以降全チームが平均得点を上げていく中で、ナショナルズはリーグの中でもオフェンス力の乏しいチームだった。さらに皮肉なことにショットクロックを最初に提案したのがナショナルズのオーナーだったのである。
これにより35勝37敗と前季王者がまさかの勝率5割以下となったナショナルズはディビジョン同率3位だった。3位と聞くとよく思えるが当時8チームしかいないNBAのイースタンディビジョン同率3位というのは実質ディビジョン最下位である。ナショナルズはタイブレーク戦を制したことで何とかPOに進出したが、連覇など狙える状態では無かった。
これに対しBOSはラムジーを欠きながらもリーグ最多の平均106.0得点でディビジョン2位。
難なくPOに進出したBOSの相手は失速状態のナショナルズだった。弱った前季王者にリベンジする最高の舞台が整ったのである。
迎えた第1戦、オールNBA1stチームに選出されたクージーが29得点を記録し、17点差で快勝。
だが第2戦ではホームに帰ったナショナルズが王者の意地を見せるべく奮闘。
3点差という接戦を制したナショナルズは続く第3戦、BOSホームながら5点差で接戦を制した。
またしてもBOSはナショナルズに敗北。負けた2試合ではナショナルズに100点以上取られており、得点力が乏しいはずのナショナルズがハイスコアゲームを展開できるのは明らかにBOSの脆弱な守備が原因で、RSのBOSは平均失点で105.3点とリーグ最下位だった。
5.NBA史に残る取引
優勝こそ届かないBOSだが、オールNBA1stチームに選出され4年連続アシスト王のクージーに加え、4年連続FT成功率1位とシュート力抜群のシャーマン、初代オールスターMVPとFG%リーグトップやオールNBA1stチーム選出の経験を持つリーグを代表するセンターのマコーレーを擁しており、決して弱くはないチームだった。それでも優勝に届かないBOSに対しAuerbachは最後のピースを必要としていた。そんな中である大学のコーチがある選手を紹介した。
208cmでありながら信じられない身体能力を持ち、規格外の守備力を持つビル・ラッセルだった。
当時のオフェンス偏重なNBAにおいて、守備力をウリにする選手の獲得を決断したAuerbachの考え方はある意味異端なものであった。
カレッジ界に名を轟かせていたラッセルを獲得しようと考えたAuerbachだが、ドラフトの指名順位は前季下位チームからであり、ディビジョン2位のBOSが狙える選手ではなかった。
さらにBOSは持っている1巡目指名権を放棄して地域指名でスター選手のトム・ヘインソーンを獲得する予定だった為、1巡目指名権は事実上無かったのだ。
しかしAuerbachの頭脳は後にNBAの歴史における最も巧妙な取引と呼ばれるラッセル獲得計画を企てる。
圧倒的守備力を誇るラッセルが1位指名される可能性は意外に低かった。
と言うのも、当時のNBAにおいてセンターというポジションは得点源であり、ディフェンス技術というのは選手を評価する上であまり注目されない技術だった。そして1位指名権を持つロイヤルズは前季リーグで平均得点が下から2番目であり、得点力を欲していた。
その上 ロイヤルズには既にモーリス・ストークスというリーグ屈指のビッグマンがいたのだ。
これらからロイヤルズがラッセルを指名することは無いと読んだAuerbachはさらに考えた。
ここでAuerbachの餌食となるのが、後にライバルとなるセントルイス・ホークスだった。2位指名権を持つホークスだが、ホークスはラッセルを指名する予定だったが、もう1人獲得したい選手がいた。BOSのマコーレーである。
マコーレーがセントルイス生まれのセントルイス大学出身であり、地元育ちのスター選手を求めていたのだ。さらにマコーレーも病弱だった息子の事を考え地元に戻りたいと考えていた。
意見が合致したBOSとホークスは、
ホークスが2位でラッセルを指名した後に、ラッセルとマコーレーをトレードするという取引を画策した。
だがホークスはラッセルをとにかく欲しがるBOSに対し、要求を追加した。
BOSで指名されてから2年間の兵役中でNBAデビューを来季果たすクリフ・ヘイガンを要求したのだ。BOSはラッセル獲得を優先させ、仕方なく要求を承認。
これにより、
ラッセル⇔マコーレー&ヘイガン
の仮トレードが成立した。
そしてドラフト当日、ロイヤルズはAuerbachの予想通りラッセルをスルーして他選手を指名。ホークスは約束通りラッセルを指名した。
この時さらにBOSは予定通り1巡目指名権を放棄して地域指名でヘインソーンを獲得。そして保持していた2巡目指名でラッセルと同じ出身校であるKC・ジョーンズを獲得。
トレードでのラッセルも含め、Auerbachの見事な駆け引きにより、こよドラフトでBOSは3人の将来の殿堂入り選手を獲得したのである。
このトレードにより念願の地元出身スター選手であるマコーレーを手にしたホークスだったが、笑っていられるのも束の間だった。
6.王朝の始まり
メルボルンオリンピックにアメリカ代表のキャプテンとして参加することとなったラッセルと、主力選手として参加したジョーンズはシーズン序盤を離脱していたものの、平均53.3点差という圧倒的実力差を見せつけて金メダルを獲得してBOSへ戻ってきた。
(ジョーンズは兵役の為、BOSには戻れなかった)
そして迎えたラッセルのデビュー戦。
運命的と言うべきなのか、対戦相手はラッセル獲得計画の取引相手だったホークス。
するとAuerbach HCはラッセルに相手の得点源であるボブ・ペティットをマークするよう指示した。
するとラッセルはルーキーでありながら、当時リーグトップクラスのペティットを相手に1on1での守備力とブロックショットのレベルを見せつけた。結果的に2点差でこの試合に勝利。
NBAというリーグでも持ち前の守備力を発揮できることを証明したラッセルはBOSの革命児だった。
前季平均失点で最下位だったBOSにとってラッセルの脅威的な守備力は最高の革命となったのである。
そしてラッセルを利用した新たなシステムをAuerbachが構築したのである。
ラッセルは1on1の守備のみならず、俊敏性を活かしたヘルプディフェンスもウリとしており、Auerbachはタイトなディフェンスを指示し、ラッセルにはヘルプディフェンスにいくよう指示した。
タイトなディフェンスは突破されてしまうリスクも増えてしまうが、突破されてしまってもラッセルがカバーするという作戦だった。さらにミスマッチが生じた時にはすぐさまラッセルがダブルチームに行くことで封じ込めた。これによりタフショットを打たせ、既にリーグトップレベルのリバウンド力を持つラッセルがリバウンドを取る。そしてBOSが元々得意としていた速攻を展開する。
アグレッシブなディフェンスによるターンオーバー・タフショット・ブロックショットから速攻を展開する最強の攻守一体のシステムは『Hey Bill !!』と呼ばれた。
これは試合中にBOSの選手達がラッセルのヘルプを要求する選手らが『Hey Bill !!』と呼んでいたことから名付けられたものである。
これによりBOSは攻撃力に加え守備力を手に入れたのだった。
Auerbachが構築した見事なシステムに加え、BOSが躍進した理由はもう1つあった。
1月初旬に兵役からラムジーが帰ってきたのだ。
SGとして先発出場できる実力を持つラムジーをAuerbachは敢えてベンチ出場させた。当時のバスケにおいて先発級の選手を先発起用しないという概念は存在しなかった。
「シックスマン」という采配を最初に導入したのはこの時のAuerbachが初めてである。
当時のNBAは可能な限り有能な選手を先発で起用し、ベンチメンバーはほとんど休憩回しに近い状態だった。
そんな中 相手が"休憩回しのメンバー"を出場させているタイミングで先発級のラムジーを投入することで、ラムジーの得点力を十分に発揮させた。
ラムジー、ヘインソーン、ラッセルを加えたBOSは44勝28敗でイースタンディビジョン1位を記録。
チーム平均得点で105.5とリーグ首位ながらディフェンスレーティングでも84.0でリーグ首位となり、記録上オフェンスとディフェンスの両方でリーグトップとなった。
(オフェンシブレーティングと平均失点においてはリーグ5位だったが、これは1試合平均のポゼッションが118.0と圧倒的に多かったからである)
リーグにおいてディフェンス力の大切さを見せつけたラッセルはルーキーにして平均14.7点 19.6リバウンドを記録していたが、オリンピックによる欠場が序盤にあった為 新人王には選ばれなかった。代わりにBOSのもう1人の新人であるヘインソーンは平均16.2点 9.8リバウンドを記録し新人王を受賞した。
ちなみにヘインソーンは地域指名で獲得されているが、Redはドラフト当時それほどヘインソーンに期待しておらず、RedがNBAにおいて犯した数少ない誤算(と言っても良い意味で)の1人である。
POに難なく辿り着いたBOSだが、彼らの真価が問われるのはここからだ。
RSで好成績を残しながらPOでは大敗を喫する姿を幾度となくボストン市民は見てきたのだ。
幸いにも第1シードのBOSは最初のラウンドを不戦通過(当時の第1シードのチームは1stラウンドは無くディビジョンファイナルから始まる)し、ディビジョンファイナルでの相手は5年連続の対戦となるナショナルズだった。これまでの4年間で直近3回敗退しており、ラッセルとヘインソーンを加え、大幅な補強をしたうえでのリベンジマッチだった。
ラッセルはRSではルーキーながら大黒柱としてチームを支えていたが、POという大舞台でも同じ活躍が見込めるのか。
そんな疑問が浮かぶ中ラッセルは出場した。
ポジションマッチは、リーグを代表するセンターの1人であるシェイズだ。
だがRSで平均19.6リバウンドだったラッセルは驚くべきスタッツを残した。
第1戦でシェイズを14リバウンドに抑えながら、自身は31リバウンドに加え7ブロックを記録したのだ。
ラッセルに支えられたBOSは90-108と18点差で勝利。
続く第2戦ではシェイズに31得点を許すも、リバウンドでは30リバウンドと圧倒。さらに決して得意分野ではない得点もRSの平均を超える20点を獲得。
105-120でまたしてもBOSを勝利に導いた。
迎えたBOSホームでの第3戦、2連勝の勢いそのままに80-83で勝利。あれだけ苦戦していたナショナルズに3連勝で勝利したのだ。
これまで好き放題にシェイズにやられ、脆弱な守備を利用され続けたBOSが守備力を手に入れようやく勝利したのだった。
ようやく辿り着いたファイナルの舞台。
これも運命のイタズラか、相手はラッセルをBOSに渡した張本人のホークスだった。
地元スター選手を欲した事で渡してしまった怪物ルーキーが、BOSを引き連れてホークスの前に立ちはだかった。
さて、話としてはここから凄く盛り上がり、後に語り継がれる8連覇へ繋がるのだが、僕は以前この8連覇に関してBill Russellの記事でほとんど書き尽くしており、もう1度書き直せるほど小規模な話ではない。
ということで詳しい流れはこの記事を見て頂きたい(とても面白いと評判なようです)。笑
【Bill Russell編】↓
http://lebrog.hatenablog.jp/entry/2017/12/02/120345
ということで、ここから8連覇までの話に関してはサクッといきたい。
先述通り、クージーやラッセルら優秀選手を取り揃えたが、これだけでは勝てない。
ここから8連覇という偉業を成し遂げるわけだが、それほどの黄金時代を築き上げた理由を少し掘り下げたい。
7.王者であり続ける為に
まず1つが、これまでに無かった黒人選手の積極的起用だ。
RedはNBA史上初めて先発選手を黒人5人で起用した監督であり、人種に関係無く優秀であれば起用するという、時代背景を考えればかなり異色の監督である。
さらに、バスケそのものがオフェンス偏重な時代の中で、守備に秀でていたラッセルを獲得する為に巧妙な取引を考え出したことも大きなRedの功績だろう。
当時の考え方としては、守備が優秀であっても、それなりの攻撃力を備えていなければ、そのセンターを獲得したいと思う人間は少なかったからである。
そして、この8連覇時代をきっかけに「シックスマン」の概念を世に広めたのもRedである。彼がシックスマンという立場を「切り札のような存在」へと変えたのである。
↑6thマン起用ら今では当たり前の概念だが、Redがそのような起用を行うまでは誰も実践していなかった
これは後のBOSの戦術にも脈々と受け継がれていくもので、NBAに浸透させたのも実質Redである。
また、ただ強力な選手を揃えるだけでなく、名司令塔クージー、守備に秀でたKC・ジョーンズ&サム・ジョーンズの『ジョーンズ・ボーイズ』、守護神ラッセル、ラッセルに隠れる影のスコアラーのヘインソーン、シックスマンとして"秘密兵器"になるラムジーと、非常にバランス良くチームを構成している。
そして鉄壁から繰り出される速攻を武器とし、ハイスコアなゲーム展開を得意とするが、実はRedはオフェンスプレイのパターンはおおよそ7つしか持っていなかった。堅固な守備からスムーズに速攻を展開することにより、複雑なオフェンスシステムは不要だったと言える。
その理由の1つに挙げられるのがラッセルだ。ラッセルのブロックは『芸術』と評されるほど華麗なもので、時には味方選手を狙ってボールを叩くことが出来たという。
ラッセルのブロックは同時にアウトレットパスの役割を果たすことがあったのである。
そしてそのラッセルの脅威的な守備力をフル活用するべく考案した『Hey Bill !!』もRedの功績の1つだ。
そしてBOSが王者であり続けた最大の要素がある。恐らくこの要素こそがこの時代のBOS以降誰も4連覇を成し遂げられていない理由だ。
Redの人事担当としての才能がとにかく優秀で世代交代がスムーズに行われているという点である。
ビル・シャーマンの引退にサム・ジョーンズが台頭。
4連覇達成後に7位指名でハブリチェックを獲得。
5連覇達成後にボブ・クージーが引退し、K.C.ジョーンズが代役に抜擢され活躍。
7連覇達成後にトム・ヘインソーンが引退するもチームは衰えず。
中心選手の1人が引退すると先発昇格した若手が奮闘し、メンバーが入れ替わりながらもチームとしてのプレイスタイルを変えることなく王者であり続けた。
これこそが黄金時代を築く上で最も難しい部分である。
そしてこの時代のBOSには、唯一世代交代することなく大黒柱であり続けたラッセルと、スムーズな世代交代を実現させたRedがいたからこその黄金時代だと言えるだろう。
そんなRedだが8連覇達成直前、衝撃のコメントを発表している。
ラッセルの記事でも書いた通り、シーズン終了と同時に監督業から身を引くことを、8連覇をかけたファイナル第1戦敗戦直後に突如発表したのだ。
これはGM兼HCだったRedが、GMとしての仕事に専念する為の決断であった。
そしてRedが後任に選んだのはラッセルだった。これがまた周囲を驚かせた。
何故なら黒人のHCというのはアメリカプロスポーツ史において前例が無かったからだ。さらに黄金期にあるチームの大黒柱であるラッセルが選手兼監督になるということでもあった。
だが、Redは最初からラッセルを後任に選んでいたわけではなかった。
まず最初に後任候補に挙げたのはラムジーだった。だがラムジーは自身が経営する福祉施設3つの運営に追われていた為にこれを辞退。ちなみに何故NBA選手の傍らでそんな運営をしているかと言うと、当時のNBAでは一流選手でも裕福な生活は難しいのが現状だった。それほどまでに年俸が低いのだ。
そんなわけでラムジーに断られたRedは次に名司令塔だったクージーに依頼した。だがクージーは『元チームメイトを指揮したくない』との理由で辞退。
その後ラッセルと同期のヘインソーンに依頼するも『ラッセルを扱うことは誰にも出来ない』と辞退。
だが、ヘインソーンはもう1つRedに意見を述べた。
ラッセルを指揮できる人間がいないのだから、ラッセル自身をHCにしてみてはどうかと推薦したのだ。
このような経緯があり、ラッセルはRedに指名された。
そして発表後から第2,3,4戦と3連勝したBOSは第7戦まで縺れながらもシリーズ制覇。
8連覇を成し遂げたのだ。
8.新たな立場
8連覇を成し遂げた直後の1966-1967シーズン、RedはGMとしてBOSに在籍。そして代わりにHCを担うのはチームの大黒柱でもあるラッセルだ。
時代が時代なだけに、『黒人に監督が出来るのか?』という声が多かった。
だがそんな声を他所にBOSは60勝21敗と"例年通り"の好成績を残した。
その要因の1つが新加入したベイリー・ハウエルだった。ハウエルは1959年に2位指名されオールスター経験もある選手だったが、個人の活躍がチームの成績には繋がらず、トレードされた後もスター軍団の中で燻り続けていた。そんなハウエルをRedがトレードで獲得した。
ハウエルはベテラン揃いのBOSに加入した直後からエースのハブリチェックに次ぐスコアラーとなり、さらにラッセルに次ぐリバウンダーともなった。
さらなる補強に成功したBOSだったが、アレックス・ハナムという名将を手に入れたチェンバレン率いるシクサーズにディビジョン決勝で敗北。
BOSは11年ぶりにファイナル進出を逃す結果となった。
ついに黄金時代が終焉を迎えたかに思われたが、Redとラッセル達が築き上げた時代はそう簡単には崩れなかった。
翌シーズン、前季と同じく60勝を上げ、POでシクサーズにリベンジを果たす。
だが絶対王者としての威厳を示したのも束の間、迎えた翌シーズンでは34歳となるラッセルは私生活も含め心身共に疲弊しきった状態となった。
ラッセルが大きくスタッツを落としたこともありBOSは48勝34敗と、ラッセル加入以降で最低勝率のシーズンとなった。
こうしてRedがラッセルと組んで以来初の第4シードで参戦したPOだったが、POとなるとラッセルは例年通りの存在感を発揮。難なくファイナルへ到達したのである。
そしてファイナルではジェリー・ウエスト、エルジン・ベイラーに加えてチェンバレンの3人が揃ったLALだった。
第7戦まで縺れる死闘の末BOSが勝利。
ラッセルHCの指揮の下で見事連覇を達成した。
9.誤算
ラッセルに監督業を託してからの3年間で連覇を達成したRedは、オフのドラフトでも巧妙な技を見せる。
この年のドラフトでBOSは9位指名でジョジョ・ホワイトを獲得。ホワイトは後に殿堂入りを果たす選手で、ドラフト前の評判も非常に高いものだった。
だが、大学卒業後2年の軍役に就くことを考慮し、1〜8位指名権を持つチームのGM達は指名しなかったのだ。
だがRedは違った。ホワイトが軍役に就かないことを知っていた。何故ならホワイトは予備役という「一般社会にいながら、軍事的出来事があればいつでも軍隊に戻る」という状態にあったのだ。
予備役に入っている為に軍役は無く、獲得さえすればNBAに参加出来ると知ってのRedの指名は、他のGMとは一線を画す絶妙な"技"だった。
だが、ホワイトを指名したのは結果的に誤算となった。
トレーニングキャンプ直前、ラッセルは突然引退を発表したのである。
これにより突然センターとHCの席が空いてしまい、黄金時代は終わりを告げ、BOSは唐突に再建モード突入となってしまったのだ。
Redからするとドラフトで有能なセンターを獲得しておきたかったが、ラッセルが誰にも引退の可能性を示唆することなくキャンプ直前に突如発表した為に起きた大誤算だった。
ラッセルHCの後任にヘインソーンを抜擢したが、大黒柱のラッセルを失ったBOSは34勝48敗と低迷。19シーズンぶりにPOを逃す結果となった。
これを受けて新たなセンターを求めたRedは4位指名権を持って1970年ドラフトへ参戦する。
10.復活の兆し
1970年ドラフトは、NBA史上屈指の当たり年と言われている。この年のドラフト生の内 5人が殿堂入りされており、他にも有名選手揃いだった。
そんな中Redが4位で指名したのはデイブ・コーウェンスだった。
センターながら身長206cmで、身長218cmのルー・アルシンダー(後にカリーム・アブドゥル・ジャバーに改名する人物)がリーグの新たな顔となりつつある中でコーウェンスの身長の低さは『NBAでも大学と同じ活躍が出来るのか?』という疑問の声が多かった。
だがRedの目に狂いは無い。
ピート・マラビッチやネイト・アーチボルド、ボブ・レイニアが同期にいながらコーウェンスは新人王を獲得。
ホワイトもオールスターに選出され、POこそ進出出来なかったものの44勝38敗と復調。翌シーズンさらに成績を伸ばし56勝でアトランティック・ディビジョン1位でイースタン・カンファレンスでも首位となった。POではカンファレンスファイナルでニックスに敗れたものの、力を増してきているのは明らかだった。
そして迎えた1972-1973シーズン、ポール・サイラスという新たな戦力を加えたBOSはついに球団記録となる68勝14敗でリーグトップの成績を残し、コーウェンスはMVPを受賞。
カンファレンスファイナルでは第7戦まで縺れた末またしてもニックスの前に倒れる。
翌シーズンでは56勝とRSの成績こそ落としたものの、ニックスを破りファイナル進出。このシーズンのMVPであるカリーム・アブドゥル・ジャバーに加え"Mr.トリプルダブル"のオスカー・ロバートソンを擁するバックスとの対戦で7戦に及ぶ激闘の末 優勝。
ラッセル引退による黄金時代崩壊から、わずか5年で王座に戻ってきたのだった。
翌シーズンではカンファレンスファイナルでワシントン・ブレッツに敗北するも、続く1975-1976シーズンでは54勝をあげてカンファレンス首位の座につく。
そしてファイナルまで辿り着いたBOSはサンズと対戦。4勝1敗でファイナルを制するが、中でもこの第5戦はトリプルオーバータイムまで縺れる大接戦で、NBAファイナルの歴史の中でも有数の名勝負である。中でもホワイトは60分間に及ぶ出場で33点を獲得し、ファイナルMVPに選ばれた。
だが翌シーズンには衰え始めていたサイラスのトレードに加え、チームを支え続けたハブリチェックも加齢による衰えが顕著になり始めた。
44勝、32勝と年々成績を落とすBOSはハブリチェックの引退もあり、もはやホワイトが1人奮闘するだけのチームとなっていた。この頃はスター選手の麻薬問題による追放劇などから優秀選手の不足もあり、リーグそのものの人気も大きく低迷していたのである。
だが、そんなNBAに救世主が現れた。
11.舞い降りた救世主
高校最終学年では1試合平均30点 20リバウンドと頭角を現し、複数の大学から勧誘を受けていたその"救世主"は、インディアナ大学に進学。だが大学に馴染めなかった彼は1ヶ月も経たないうちに退学し、地元で清掃員として働きながら短大に通っていた。
そしてもう1度大学に行く決心をした彼はインディアナ州立大学に進学。
身長206cm 体重100kgながら、身体能力は乏しい白人選手。
全米から注目されるこの逸材の名は
Larry Bird。
32勝でシーズンを終えるという屈辱の結果を受け、Redはカレッジ界を騒がせていたバードを獲得したかった。
だが、このシーズンを終えたオフの1978年時点でバードはまだ3年生だった。
この当時は大学に4年間通った者のみがドラフトにエントリーする資格を貰えるという制度であり、あと1年待たなければなかった。
そして迎えた1978年ドラフト、Redは6位指名権を持って臨んだ。
このドラフトではトレイルブレイザーズが初の非アメリカ人を1位指名という出来事があった。だが、それに匹敵するほど歴史に名を刻む出来事が起きた。
Redが6位でバードを指名したのだ。
本来なら来年のドラフトでもっと高順位で指名されるはずのバードが大学3年生ながら指名されたのである。
当時アーリーエントリーなどはもちろん存在しておらず、バード自身も指名されるなど思ってもいなかった。
だが、周りのGMを出し抜く為にRedは制度の盲点を見つけ出した。
Redはバードの学歴をしっかりと把握していた。インディアナ大学退学後、ノースウッド大学という短大に1年間在籍した後に、インディアナ州立大学を3年間通っていたのである。
『インディアナ州立大の3年生だが、大学にはトータル4年間通っている』という理屈を突きつけたのである。
十分に理屈が通っていた為、リーグも承認しBOSはバードを見事獲得。
バードには中退して「アーリーエントリー」という形でNBA入りすることも可能だったがそんな意思は無かった為、実際にBOSでプレイするのは1年後となるのだが、この1年こそバードがNBAの救世主となれた最大の理由である。
このバードにとって4年生のシーズン、33戦全勝という圧倒的強さで決勝へ進出。そしてこの決勝でアービン・"マジック"・ジョンソンと初めて対戦することとなった。
派手なパスを得意とする黒人マジックに対し、身体能力は無いが万能で知的な白人バードという対象的な2人のマッチアップが盛り上がらないはずが無かった。
これはNCAAの歴代最高視聴率を記録し、NBAの人気がドン底まで落ちていた中で、全米がこの試合に注目した。
勝者はマジック側。こうして幕を閉じた2人のライバル関係はNBAに持ち越されることとなった。
既にBOSへの加入が確定していたバードに対し、マジックはドラフトにエントリーしたばかりだ。
この年のドラフト1位指名を受けたのはマジックだった。しかも指名したのは、これまでの歴史でBOSとライバル関係にあったLALだった。
これにより1979-1980シーズンからLALとBOSは東西を代表する名門として復活していく。2人の救世主によって。
※さて、ここからバードを中心にBOSは第二次黄金期へと突入するわけだが、いずれバード特集も書く日が来ると思うので、Redが直接関わった部分を中心に簡潔に書いていこう。
12.狡猾な収穫
バードが加入した1979-1980シーズン、前季29勝に終わっていたBOSを61勝とリーグトップの成績へ押し上げた。バードは新人王を獲得し、さらにはNBA1stチームに選ばれたのである(ちなみにバードは以降9年間も1stチームに選ばれ続ける)。
POではモーゼス・マローン率いるヒューストン・ロケッツをスウィープ。
続くカンファレンスファイナルではジュリアス・アービング率いるシクサーズに1勝4敗北で敗れたものの、1年でこれだけの強豪へ変貌させたバードは流石としか言いようが無かった。
そして翌シーズン、普通なら少しの補強で優勝に向けてチームを調整していくだろう。だがアワーバックGMはそんな補強で満足するような人間では無かった。それどころか先見の明があるRedはバード入団に向けて準備を行っていた。
バードが入団する前の1979年、元オールスターのボブ・マッカドゥーはチームに馴染んでいなかったこともあり、ピストンズへトレード。これにより1980年の1巡目指名権をBOSは受け取っている。そして1979-1980シーズンのピストンズはカンファレンス最下位。
イーストとウエストの最下位同士がコイントスで1位指名権を争うのだが、1巡目指名権を受け取っていたBOSとジャズでコイントス。
結果BOSに1位指名権が渡ることとなった。
Redがドラフトで狙っていたのはケビン・マクヘイルだった。
だがもう獲得する準備は整った。
マッカドゥーを犠牲にして手に入れた1位指名権でマクヘイルを指名するだけでいいのだ。
だが、Redはこの1位指名権をトレードに使った。元々持っていた13位指名権と合わせてウォリアーズへトレード。
再建真っ只中のウォリアーズにとって1位指名権と13位指名権は最高のプレゼントだった。そしてBOSがウォリアーズに求めたのは、大学時代にMVPを獲得しながらもNBAで燻り続けるセンターのロバート・パリッシュとこの年のドラフトの3位指名権だった。Redはパリッシュの潜在能力の高さと、マクヘイルが3位まで指名されないと読んだのだ。
一方ウォリアーズからすると、大成しない若手と3位指名権で、1位指名権と13位指名権が手に入る。
ウォリアーズにとってパリッシュを手放すことに躊躇は無かった。この年のドラフトには216cmの長身センターであるジョー・バリー・キャロルがいたのだ。
このトレードは成立し、その後のドラフトで1位指名権を持つウォリアーズはキャロルを指名、2位指名権を持つジャズはダレル・グリフィスを指名、BOSは目論見通りパリッシュを獲得しながらもドラフト3位でマクヘイルも獲得した。
このトレードは後に『最も不公平なトレード』と呼ばれるようになるが、トレードとは双方合意の上で成り立つものであり、ウォリアーズの足元を見たRedの狡猾な優勝への近道だった。
後にNBA史上最高のフロントコートと呼ばれることとなるBIG3を形成したBOSは、前季から1勝上乗せした62勝で2年連続リーグトップとなる。
POではブルズと、前季のリベンジマッチとなるシクサーズを破りファイナル進出。
相手は昨季にスウィープしたロケッツだった。シーズン開始前に新たなチームの加盟によってリーグの東西カンファレンス再編成があった為に、ロケッツはウエスタンカンファレンスに移っていた。
前季にスウィープされていることからも分かるように、ロケッツは強豪ではなかった。カンファレンス6位 勝率5割以下であり、PO進出チームの中では最低の成績だった。
シーズントップの勝率を誇るチームとPO進出チーム中最低勝率チームであり、さらにBOSとの直接対決で直近12連敗と、誰がどう見てもBOS優勢だった。
だが予想外にロケッツは奮闘した。
さらに言うと、この時のBOSはバードがPOに入ってやや不調、マクヘイルはまだ1年目で経験不足、パリッシュもこのシーズンの時点ではまだ完全に開花したわけではなかったのだ。
だが、Redがこれまでに行ってきた的確な補強はそんな程度で崩れるものでは無かった。
BOSは4-2で優勝を果たした。
ファイナルMVPに選ばれたのはパリッシュ・バード・マクヘイルの誰でも無かった。
セドリック・マックスウェル。
1977年12位指名でBOSに加入したPFだった。
パリッシュらBIG3と比べるとスター性は無いが、アシスト・リバウンド・スコアリングと卒なくこなせる万能フォワードだった彼は勝負所となる第5戦 第6戦でチームを牽引。
Redが、バード獲得後に仕込んでいた未来を見据えての補強だった。
そしてバードの補助のはずがファイナルという大舞台で見事にチームを支えたのだ。
ベンチまで徹底した地盤が仕上がっているBOSは、バード・マクヘイル・パリッシュら伸び代のある選手も多くいた為、バード自身 優勝したこの時に、このまましばらく連覇出来ると自信を持っていた。
そう感じれるだけの手応えがあったのだ。まして自チームのGMは8連覇の伝説を持つRedなのだから。
14.史上最高のフロントライン
そして迎えた翌シーズン、またしても1勝上乗せし63勝で3年連続のリーグトップ。
(地味にこれは凄い。トップチームが3年間トップであり続けているだけでも凄いのに勝利数も僅かながら上乗せ出来ている)
POではカンファレンスファイナルで3年連続となるシクサーズとの対戦だった。
バードはシリーズ平均18.3得点 14.1リバウンド 7.3アシスト 1.9スティールとオールラウンドな活躍を見せるが、第7戦まで縺れた末に敗戦。
翌年にはバックコート陣の補強をすべく、現在GMを務めているダニー・エインジを2巡目31位で獲得(ちなみにエインジはカレッジバスケのスターでありながら、オフシーズンの夏にはMLBで野球選手としても活動していた。その為、BOSはエインジと契約をする際にMLBとの契約も買い取ることとなった)。
そんなBOSは56勝をあげるもPOでバックスにスウィープされてしまう。
(バードの記事でまたしっかり書きたいので、この先結構簡略化してます。すいません。)
このスウィープを受けバードは猛特訓。
フェイダウェイシュートを身に付け、さらに精神面でも大きな成長を見せた。
さらにRedはHCを務めていたビル・フィッチを解雇。代わりに8連覇時代のPGだったKC・ジョーンズを迎え入れた。
優勝に向けて全力を尽くすRedは更に元ファイナルMVPで守備に定評のあるデニス・ジョンソンを獲得。
万全の体制で望んだ1983-1984シーズンでは62勝をあげ、リーグトップに返り咲いた。バードはこの年にMVPを受賞(ちなみにここから3年連続で受賞する)。
カンファレンスファイナルでバックス相手に前季のリベンジを果たし、ファイナル進出。
ファイナルの相手は、当時全米が待ち望んだLALだった。
16.伝統の一戦、と続けたいところだが、このファイナルは簡略な説明と結果だけを書くのはあまりにも勿体無い。
マジックvsバードの第1幕なのだから。
Redの記事として最後に優勝回数などをまとめる必要があるので、結果を言うとこのファイナルはBOSが制覇。
以降バードとマジックの対決が繰り広げられるが、この年にRedは長年就いた人事担当の座を退いている。
Red Auerbachの功績
ざっとRedのキャリアを追ってきたが如何だっただろうか。
余談だが、『Auerbachの功績』としてもう1つ紹介しよう。
古くから引き継がれてきたこのロゴ。実は初期は大きく四葉が描かれたロゴだったのだが、RedがBOSにやってきた1950年からこのロゴとなっている。
説明すると長くなるので、おじさん自体の細かな説明はBOSのチーム特集記事でも書いた時(歴史が深すぎて多分書かない)に説明するが、このデザインはRedの弟で漫画家のザン・アワーバックがデザインしたと言われている。
(そう考えると、このおじさんがくわえている葉巻はもしかして...)
Redの一番の特徴は、型にはまらない柔軟な発想と、それらを実行する強い信念だろう。
ドラフトで史上初の黒人指名、史上初の先発5人黒人起用、史上初の黒人HC誕生など、当時の時代背景を考えると異端だったことが窺える。
さらに、優秀な選手をあえてシックスマン起用するという型破りな戦法を見せ、ラッセルやバードなど獲得したい選手の為に、制度の穴を見つけたり、他チームの動向を先読みするなど、非常に巧妙で頭脳的な手段を使っていた。
8連覇という伝説だけを聞けば余程凄い選手がいたのかと思えるが、ラッセルがいたから出来たのではなく、ラッセルを上手く支える人物がいたからこそ成し得たと言っても過言ではない。
偉大なラッセルが大黒柱であり続け、そのラッセルを最大限に活かす戦法を取り、それぞれのポジションに的確な選手を配置し、衰える頃には次の世代が用意されていく。
このRedの構成力こそが8連覇の源とも言える。
近年で強豪であり続けるチームと言えばSASが最も素晴らしいだろう。
自分達のシステムにフィットするであろう選手を的確に集め、他チームがそれほど興味を示していなかったような掘り出し物を回収していく。
MIAも3KINGSを結集させただけではなく、戦術を探りながらライリーGMが安価で適切な補強を施したからこそ、4年間ファイナルに出続けることが出来たのだ。
現在リーグ内で猛威を振るうGSWも、生え抜きの選手達を育てながら、カリーやトンプソンらの"個"の力のみではなく、リーグ随一のオフェンス戦術に上手く巻き込むことで、圧倒的攻撃力を生み出している。
Redは8連覇という偉業のみならず、強豪チームを組み立てるだけの手腕がリーグ史上最高レベルだったことは言うまでもない。
リーグ史上最強と称されることもある現在のGSWのように、今後も歴代最強クラスのチームは誕生するだろうが、Redが築き上げたBOSほど王座に君臨し続けるチームは今後2度と現れないのではないかと僕は思う。