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レブ郎が自由に書くブログです。

"Mr.Basketball"

皆さんは"Mr.Basketball"と呼ばれる人物をご存知だろうか。

本名はGeorge Mikan。彼は他のスーパースターと違い『今の時代にいれば』という仮定には全くハマらない。ジャバーのスカイフックや、ティム・ハーダウェイのキラークロスオーバーのように固有のスキルを持つわけでもなく、動画を見てもそれほど歴史的な選手とは思えないだろう。

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そんな彼が何故"Mr.Basketball"と呼ばれるのか...

それは現代の全ての選手の始祖だからである。

現代のルールを元に彼のプレイを見ると大したことは無いはずだ。

何故なら、彼を抑える為に作られたルールが複数存在するのだから。

当時まだ1つのスポーツとして成熟していなかったバスケットボールという競技の進化に貢献した人物である。

マイカンはバスケットボールの世界に『ビッグマンでも活躍できる』という概念を持ち込んだのだ。当時はビッグマン=鈍重という概念があり、そんな中で彼は『2mの俊敏なビッグマン』として衝撃をもたらした。つまり彼の登場はビッグマンの活躍の場を見出すのみならず、ガードが2m超えでも通用するという『巨人のスポーツ』という概念を持ち込んだのだ。

バスケットボール初代殿堂入りで、NBAオールタイムチームの全てに選出されたNBA史上最も偉大なビッグマン。

そんな彼のキャリアを今日は少し勉強...

 

※マイカンに関しての逸話はあまりにも多いので、今回は生い立ち等は少し簡略化しています。

ご了承下さい(・ω・)

 

1.苦渋の選択

1924年、後にバスケットボールの歴史を変える1人の少年が誕生した。祖母にピアノを教え込まれながらもガレージの壁にあるリングでバスケをしていた彼は13歳になる頃には既に180cmを越え、同級生達からはバカにされる日々を送っていた。そんな彼自身も長身を気にするあまり、少しでも低く見せるよう猫背にしていた。しかしそんな猫背も虚しく伸び続け、高校に入ると彼の身長はついに203cmに。

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重度の近視により眼鏡をかけてバスケを続けていた彼に対し、当時のバスケのコーチは「眼鏡を掛けていながらバスケットはできない」と言い放つ。これによりバスケを諦めて聖職者になることを考えたマイカンは神学校に転校、しかし卒業間際にして、バスケを諦め切ることは出来なかった。

家族に聖職者を諦めることを伝えず、密かに別のコーチの下で指導を受け、バスケの為に進学することを選択した。

ちなみにマイカンはこの後もずっと家族にバスケの夢を追っていることを告げないままで、家族が真実を知ることになったのは、新聞でバスケ選手として息子が活躍しているという記事を父親が目にした時だったという。

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※イメージ

 

2.唯一無二の選手へ

『内気で不器用な長身選手』当時のマイカンはこれに当てはまっていた。

しかし彼が進学したデポール大学で出会うレイ・マイヤーという23歳の新米コーチがマイカンを変え、そしてバスケの常識を変えたのだ。

マイカンに可能性を感じたマイヤーはコーチとしてのキャリア1年目をマイカンに捧げ、マイカンを他に類を見ない能力を持つ選手へと変化させた。同時にこの過程でマイカンはコンプレックスであった長身を徐々に誇りに思うようになっていく。そして内気だった彼が、自信溢れる攻撃的な選手へとなるのであった。

このマイカンの進化の過程において、現代でも語り継がれる有名な練習法が『マイカン・ドリル』である。ご存知の方も多いだろうが、簡単に説明するとゴール下で左右交互に打ち続けるものである。これを6週間朝から晩まで猛特訓したマイカンは左右両方の手からフックシュートを放つことが可能になった。

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↑現在でも世界各国で行われている有名な練習法

 

そしてこれまでの「長身選手は鈍重」というバスケの概念を打ち破らせる為、マイカンの潜在的な俊敏性を引き出すべくマイヤーが課した練習は意外なものが多かった。週末にはダンスホールに通わせて一番背の低い女性とペアを組ませ、ボクシングやバレエも習わせた。

新米コーチによる型破りなこの特訓の数々がマイカンに類を見ないフットワークを身に付けさせ、異色の選手へと進化させたのである。

 

3.衝撃的なデビュー

そして1942年の秋、ついにマイカンが大学での公式戦デビューを果たす。

マイカンは10得点を記録したが、マイカンが周囲に衝撃を与えたのはオフェンス面ではなくディフェンス面だった。

彼は相手がシュートを放とうとするタイミングに対し的確にジャンプし、リングをくぐろうとするボールをブロックしたのだ(当時ゴールテンディングは存在しなかった為、落ち始めたボールのブロックも可能だった)。

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この当時にゴールテンディングが無かったのはそんな高い位置のボールに触れることが出来る選手がいなかったからである。圧倒的な守備力を持つマイカンを擁したデポール大学は残りの4人にゾーンさせ、マイカンはひたすらゴール下でブロックする役割を担った。

翌シーズンにはオフェンス力も開花させたマイカンはオールアメリカンや最優秀選手に選出される。当時24秒バイオレーションや3秒バイオレーションが存在しなかった為、マイカンはじっくり時間を使いながら体を駆使して徐々にリングに近付き、シュートを放つという独特のスタイルだった。

マイカンの他にもう1人、213cmの長身でバスケ界を騒がせていた選手がいたこともあり、翌年にはついにゴールテンディングが設けられた。

 

4.無敵の存在へ

しかしもはやこのルールで弱体化するようなマイカンではなかった。平均23.9点をあげて全米得点ランキングで1位となると、あるトーナメントではマイカンはチーム全体の97点のうち53得点をあげた。さらに驚くのはこの試合で相手チームの総得点が53点、つまりマイカン1人で相手チーム全員分と同じ点を稼いだのだ。

結局マイカンはこのトーナメント中、平均40得点、3試合で計120点など桁外れな成績でトーナメントMVPに輝いた。

その翌年にも平均23.1得点で3年連続の得点王を達成、優勝こそ叶わなかったが全米に名を広めることとなった。

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5.プロの世界へ

1946年、マイカンは大学を卒業。

第二次世界大戦が集結した頃であり、アメリカ国内には戦地から帰った兵士達らを取り込むべくあらゆるスポーツリーグが創設される。バスケも例外でなく、NBAの前身となるBAAがこの年に誕生。BAA以外にも色々なリーグが存在していたが、マイカンのような全米に名の知れたスター選手は極めて貴重な存在だった。

マイカンはNBL(ナショナル・バスケットボール・リーグ)のシカゴ・アメリカン・ギアズというチームと契約する。ギアズと結んだ5年6万ドルという契約は当時のスポーツ選手史上最高額だった。f:id:LBJ1107ryo:20170901171706j:image

↑(シャツの画像しか無かった...)

するとマイカンは各リーグの上位チームなどを集めたトーナメントの5試合で計100得点を記録しトーナメントMVP、さらにシーズン平均16.1得点はNBLで1位、ギアズは優勝を果たすなど1年目から輝かしいキャリアを送った。

するとギアズのオーナーだったモーリス・ホワイトはマイカンに特別な可能性を感じギアズをNBLから脱退させる。そしてPBLA(プロフェッショナル・バスケットボール・リーグ・オブ・アメリカ)というNBLとは別の24チームからなるリーグを創設。24チームの全てのホームアリーナの所有権はギアズ所有という大胆なものだった。

 

しかし、そんなシステムが上手くいくはずもなくシーズン開幕前にPBLAは解体。ホワイトはNBLに再加入を提案したがNBLに拒否されてしまいギアズは解散を余儀なくされる。

同時にFAとなったマイカンはアメリカ中に存在するあらゆるバスケットチームから獲得を狙われるがNBLに残留。前季でリーグ最下位だったデトロイト・ジェムズというチームにドラフトによって加入することとなった。そのジェムズは創設1年でミネアポリスに移転すると共に改名。

マイカンが残りのキャリアを捧げることになるミネアポリスレイカーズが誕生した瞬間だった。

 

6.レイカーズ王朝

マイカンにとってミネアポリスは大学時代に訪れたことのある土地であり、良い印象を持っていない土地の1つだった。

とにかく寒い土地だからである。

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シベリアにドラフトされた』

レイカーズにドラフトで獲得されたことを知り、そんな冗談を言ったマイカンを何とかチームに留めようとレイカーズは必死の補強を行う。

しかし乗り気では無かったマイカンは弁護士を連れてレイカーズの代表者と交渉するも、3時間の議論の末、納得がいかず空港へ向かう。しかし既に帰りの最終便は飛び立った後であり、ミネアポリスに残らざるを得なかった。その後、翌朝まで粘ったレイカーズに渋々応じることとなった。

こうしてマイカンと何とか契約を果たしたレイカーズだったが、強力な補強を果たしていたこともありシーズンでは他を圧倒。シーズン得点王のマイカン率いるレイカーズはリーグ首位の座につき、POでも8勝2敗という成績で優勝を果たした。

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この頃、BAA(現在のNBA)によるリーグ統合の計画が進み、大都市に本拠地を置くNBLの4チームを吸収することとなったが、その1つがレイカーズだった。

こうして、マイカンのNBA(BAA)でのキャリアがレイカーズと共にスタートしたのだった。

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NBLでは超一流選手だったマイカンはBAAでもその能力の高さを証明する。

平均28.3得点で得点王に輝き、オールBAA1stチームに選出。POでは1stラウンドでシカゴ・スタッグスと対戦するも全勝(ちなみにこのスタッグスにはマイカンの実弟 エド・マイカンが所属していた)。

次のラウンドではNBL時代からライバル関係にあったロチェスター・ロイヤルズと対戦するもこれも全勝。

ファイナルでは伝説のHC レッド・アワーバックが指揮を執るキャピタルズとの対戦だったが第1戦で42点、第3戦で35点を記録したマイカンの活躍もあり3連勝。しかしこの第3戦で敵選手との衝突によりマイカンの手首が大きく腫れ上がる事態に。ギプスでガチガチに固めた状態で第4戦に出場したマイカンは27点を記録するも敗北。続く第5戦でも22点の成績が実らず連敗を喫する。しかし第6戦でキャピタルズをシリーズ最少の56点に抑えるとマイカンはゲームハイの29点を取り見事勝利。PO平均30.3点のマイカン率いるレイカーズNBLとBAAの2つのリーグを跨いで連覇を達成したのだった。

そしてこのオフの1949年、NBLはついに消滅。

NBLから新たに6チームを吸収したBAAは現在まで続くNBAというリーグ名称に改名する。

 

一方レイカーズはこの年のドラフトで獲得したスレーター・マーティンとヴァーン・ミッケルセンという2人の選手に加えて、NBL時代から所属していたジム・ポラードとマイカンの4人はレイカーズ王朝の中心選手となった。ちなみにマイカンを含め上記4人は全員殿堂入りを果たしている。

 

7.NBA元祖スーパースター

迎えたNBA最初のシーズン、マイカンは平均27.4点で得点王とオールNBA1stチームに選出。ライバルのロイヤルズと同率だったもののタイブレークを獲得し、レギュラーシーズンを1位通過。

続くPOではファイナルまで無敗で到達。ファイナルではマイカンに並ぶ殿堂入り選手のドルフ・シェイズを擁するシラキュース・ナショナルズとの対戦だったが、第1戦では37点を記録したマイカンに加えレイカーズのボブ・ハリソンが12m離れた位置(現在NBAの3Pラインの距離が7.2m)から逆転ブザービーターを沈めるという劇的な勝利を果たす。

続く第2戦では敗北するも、シリーズ平均32.2点のマイカンの活躍により4勝2敗でNBL・BAA・NBAと3年連続異なるリーグで優勝という偉業を達成。マイカンはファイナルの6試合全てでゲームハイの得点を達成していた(優勝を決めた第6戦では40点)。

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↑ドルフ・シェイズ

 

黄金時代の幕開けとなったレイカーズに対してNBAは早くも経営難に陥り所属チームが17から11に減少。そんな影を他所にマイカンは3年連続得点王を達成。加えてこの年からスタッツとして記録が始まったリバウンドではシェイズに次ぐリーグ2位の好記録。さらにシーズン中に投票された「半世紀における最も偉大なバスケットボール選手」でマイカンが選ばれることとなる。

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しかしそんなマイカンはシーズン半ばにして足を骨折。回復することなくPOに突入してしまうこととなってしまう。

ディビジョンファイナルで敗退してしまいNBAでの3連覇の夢が消え去ったレイカーズだが、足を引きずりながらもインサイドを支配しPO平均24.0点を記録したマイカンはもはや抑えようのない選手となっていた。

しかし翌シーズン、マイカンにデビュー以来最大の"敵"が現れることになる。

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8."マイカン・ルール"

1951-1952シーズン、 NBAはゴール下の制限区域を6フィートから12フィートに拡大する。この区域拡大を特に主張し続けていたのは当時NYKのHCだったジョー・ラブチックだった。マイカンは奇遇にもゴールから12フィート程度離れた位置でのプレイを得意としており、この区域拡大によってプレイしづらくなるのは明らかだった。さらに奇遇なことにラブチックはマイカンをかなり敵対視していたという。

そう、これは明らかにマイカンを狙ったルール改正だった。当時制限区域の2倍の距離で自由自在に点を取るマイカンをルールで抑えようとしたのである。

そしてこのルール改正は『マイカン・ルール』と呼ばれ、餌食となったマイカンはBAA加入以来最低の平均得点(といっても23.8点だが)を記録し、FG%も前季の42.8%から38.5%に落としていた。これによりキャリア4年目で初めて得点王を逃すが、平均リバウンドは13.5でリーグトップとなった。(リーグトップだがリバウンド王ではなかった。というのもこの時はシーズン通算の本数で決まるので、欠場数が多いほど不利なのである)

また、2OTに突入したロイヤルズとの試合で当時歴代2位となる61得点を記録。『マイカン・ルール』によって苦境に立たされるかと思われたレイカーズだったが、ルール改正という最大の試練を乗り越えたマイカンのおかげでファイナルに無事到達。

この年のファイナルの相手はNBA史上初の黒人選手であるナサニエル・クリフトン擁するNYKだった。

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このシリーズは第7戦まで縺れるが、他の予定などでほとんどの試合でホームアリーナが使用出来なかったという非常に珍しいシリーズとなった。そして皮肉にも、リーグ全体を巻き込むルール改正という手段でマイカンに対抗したNYKだが、マイカン率いるレイカーズに敗北する結果となった。

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9.史上初の3連覇へ

翌年、平均14.1リバウンドだったマイカンはシーズン通算で1007リバウンドを記録、リーグ史上初のシーズン通算1000リバウンドを達成という偉業と共にキャリア初のリバウンド王となった。その一方で平均得点はさらに下降し20.6点(それでもリーグ2位)となった。前季の制限区域拡大に加えて、このシーズンはマイカンへの対策として良いポジションでボールを持たれた場合はすぐにファウルをしていたからである。これに対抗すべくマイカンはアウトサイドシュートの習得に励むのだが、これが思わぬ落とし穴だった。

リーグ1位だったレイカーズは順当にファイナル進出、前年でも対戦しているNYKとのカードとなったが、いきなり初戦を落としてしまいホームコートアドバンテージを失う。第2戦ではなんとか勝利を収めたものの、レイカーズは明らかにギリギリの状態だった。

そんなレイカーズのHC クンドラはマイカンが本来のプレイを発揮していないと判断し大学時代のマイカンの恩師 マイヤーに声を掛ける。ベンチから試合を眺めていたマイヤーは不慣れなジャンプシュートを繰り返すマイカンに対しハーフタイム中に激怒。大学時代に磨き上げたフックシュートを打つよう指示する。

すると後半、マイカンは普段のプレイを取り戻し支配力を発揮。

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以降3試合連続でNYKのホームゲームだったが本来の姿に戻ったマイカンの前にNYKはなす術なくホーム戦3連敗。

レイカーズは見事連覇を果たしたのだった。

翌シーズン、マイカンはリバウンドでは14.3リバウンドと実力を発揮していたが、慢性的な膝の痛みが影響し、ついにキャリア初の平均得点で20点割れ(18.1点)となる。レイカーズは9位指名でセンターのクライド・ラブレット(後に殿堂入り)を獲得し、マイカンの補佐を務めた。ラブレットの助けもありレイカーズは2年連続リーグ首位。POでも順風満帆だったレイカーズはファイナルに進出。ナショナルズとのファイナルでは初戦を制したレイカーズをきっかけに、交互に勝利。お互いに連敗することなく 最後まで縺れ、第7戦でレイカーズが7点差で勝利し、史上初の3連覇を達成する。

6年間を通してレイカーズは5回優勝、6年間で唯一レイカーズを阻止したのはロイヤルズだが、マイカンを抑え込んだのはむしろロイヤルズの選手ではなくマイカン自身の足の骨折だった。

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10."ショットクロック"

翌年、NBAにバスケットそのものを大きく変えるルールが制定される。ショットクロック(24秒ルール)が導入されたのである。このきっかけは遡ること1950年、レイカーズと対戦したピストンズがマイカンへの対抗策として超ローペースゲームを行った試合でのことである。レイカーズに攻撃権が移る回数を限りなく減らすべくピストンズはボールを保持し続けた。ボールポゼッションの移り変わりを減らすことでマイカンのリバウンドも減らすことができ、1Q12分×4Qの48分をプレイして18-19という驚愕のロースコアでピストンズ勝利

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※FTW= フォート・ウェイン・ピストンズ

MNL=ミネアポリスレイカーズ

 

しかし、試合の大半がボール保持となるこのスタイルが観客にウケるはずもなく、観客からは避難が殺到。しかしそれでもマイカンへの対策としては非常に有効であったため、リーグ全体にこの戦術が浸透してしまい、各オーナー達は危機感を感じていた。

つまり導入こそ4年後だったものの、最初のきっかけは「無敵過ぎたマイカン」だったのである。ちなみにこのロースコアゲームでもレイカーズの18点の内15点がマイカン、チーム全体のFG%は83.3%を記録し、今後も破られないであろう記録となっている。

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11.限界

ショットクロック導入により試合のペースが大幅に早まることで自分にとって厳しいと考えたマイカンはトレーニングキャンプ3日前に引退を決断。『家族のそばに居たい。バスケット以外の分野に進む時が来た』と会見で話していたが、引退のもう1つの大きな理由は故障である。マイカンの足は計10箇所に骨折、縫合箇所は16箇所に及んでおり、早いペースでのゲームとなる新たなシーズンをこなせる体ではなかった。

マイカンを失ったレイカーズは低迷。ラブレットがチームを牽引するもPOで無念の敗退。

1955-1956シーズンには希望の光を求めたレイカーズがマイカンに復帰を志願。チームの期待に応えマイカンは復帰を果たす。1年以上リーグから離れていたマイカンだが、37試合に出場して平均10.5点 8.3リバウンドを記録するもチームは負け越した。POでは新たなリーグの顔 ボブ・ペティット率いるホークスに敗れ、シーズン終了後にマイカンは改めて引退を表明。

NBL、BAA、NBAの3つを合わせての通算11764得点は当時歴代最高記録だった。

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12.第2のキャリア

引退後すぐにマイカンは議員選挙に出馬、大統領からも支援されるが惜しくも落選。

現役時代からオフシーズンを利用して大学に通っていたおかげで法学の学位を取得していたマイカンは法律専門家を目指すも挫折。半年ほど定職に就けず、かつての球団の英雄は経済難に直面した。

1958年、レイカーズGMとHCを兼任していたクンビラがマイカンにHCの座に就くよう声を掛ける。

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しかしマイカンが指揮したレイカーズは勝率23%と低迷、球団史上最低の記録を更新してしまう。この結果を受け解雇されたマイカンはもう一度法律専門家の道を目指し、不動産関連の法律業に就きようやく成功を収める。

 

 

13.ABAコミッショナーとその後

1967年、安定した生活を取り戻したマイカンにバスケットボールに再び関わる機会が訪れる。この年にNBAのライバルリーグとして誕生したABAの初代コミッショナーとして声を掛けられたのだ。このABAに関しては以前記事に書いているので、マイカンに関する点のみここに記述しよう。

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ABA自体はわずか9年で幕を閉じることとなったのだが、マイカンがNBAも含めたバスケ業界にもたらした功績は大きく分けて2つある。その1つが3Pシュートである。NBAに対抗すべくエンターテイメント性を求めたABAがマイカン考案のもと始めたもので、NBAにも後に取り入れられることとなった。そしてもう1つがABAの象徴とも言える赤・白・青の3色を使ったボールである。

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カラーテレビが普及し始めたことで見栄えが良いとの声があったが、マイカン曰く星条旗をモチーフにすることで「愛国的」であることが理由だったという。

1969年、2年務めたコミッショナーを辞任し法律業に再び専念。

マイカンは法律に関する知識を活かしてNBA選手の権利擁護運動を始める。

そしてこの後、マイカンはまたしても大きな功績を残す。

少し戻って1960年、ミネアポリスレイカーズは現在と同じロサンゼルスに移転。

以降のミネソタ州ミネアポリスにはABAのチームが2つ存在していたが、いずれも1年で解体。ミネソタ州に拠点を置くチームは長らく存在しなかった。

そんな状況にマイカンを中心とした団体が、経営難により売却を検討するチームらにミネアポリス移転を促すも失敗。一方、ミネアポリスの実業家達もプロバスケチーム誕生を計画し始めたのである。そしてマイカンを中心とした団体と実業家達が協力し、1988年にミネソタ・ティンバーウルブズが結成された。

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 そしてマイカンに最期の時が近づく。

 

14.最期の戦い

腎疾患と糖尿病を抱えていたマイカンはやむを得ず右足を切断。人工透析も行っていたマイカンだが、医療保険はカットされてしまう。そんなマイカンは1965年(この年からNBA選手の年棒が爆発的に跳ね上がった)以前の選手達に支給される年金の低さ(月に1700ドル)を指摘し、法廷で争っていた。週に3回の人工透析を行いつつ法廷で戦い続けるも、糖尿病の合併症により容態が悪化。

2005年6月、創成後のバスケットボールに多大な影響を与えた偉人は80年の人生に幕を下ろした。

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銅像が設立された際の写真

多くの人々に悼まれたマイカンの死は、晩年マイカンが戦い続けていた法廷にも注目を集めるきっかけとなる。解説者や専門家達は『今 大金を受け取っている現役の選手達は1965年以前の選手達の所得を保障する為に結集するべきだ』と主張。当時のスター選手の1人シャキール・オニールは『マイカンがいなければ私はいなかったはずだ』とあらゆる選手達の祖先であるマイカンの功績を讃えるコメントと共に、マイカンの葬儀費用を自分が支払うと申し出た。

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その年のプレーオフ、シャックが所属するMIAとDETの試合前にはマイカンの死を悼むべく1分間の黙祷が捧げられている。

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。お疲れ様です。

そして、読破おめでとうございます。笑

ここまでに書いたマイカンの功績を覚えていますか?

もはや多過ぎて1人の選手とは思えないほどでしたね(・ω・)

勿体無いくらいですが、ザッともう一度羅列してみましょう。

 

①前代未聞、「動けるセンター」というスター選手になる

②ビッグマン優勢の時代を作り出す

③大学時代、リングをくぐる直前のシュートをことごとくブロックし過ぎてゴールデンディング制定

④マイカンがゴール近辺を支配し過ぎて制限区域拡大(マイカン・ルール)

⑤マイカンを抑える為に考案されたロースコア戦術を阻止すべくショットクロック導入

⑥運営側の立場として、バスケをより面白くするべく3Pライン導入

⑦現在も3Pコンテストのマネーボールとして使用される3色ボールをABAで採用

ミネソタ・ティンバーウルブズ結成の中心人物になる

⑨大学時代に行っていた練習法が『マイカン・ドリル』として現在でも世界中で行われている

 

少し面白おかしく適当に書きましたが、選手としても運営側としてもルールを変えまくったマイカンはもはや創世神です。

当時まだスポーツとして成熟していなかったバスケットボールを次のレベルへ引き上げたのは間違いなくマイカンである。

リーグも当時唯一のスーパースターだったマイカンをリーグ拡大に大いに利用しており、1949年のNYKでの試合ではマディソン・スクエア・ガーデン

【 G.Mikan vs KNICKS 

という看板が掲げられ、マイカンのチームメイトは「俺達は出場しなくていいんじゃないか」とボイコットしようとすることさえあった。

そんな唯一のスーパースターをメディアが放っておくはずもなく、アウェイの試合の時にはマイカンはチームメイトより1日早く現地入りし、インタビューをこなすほどだった。

 

はい、1万字突破です。笑

生活の空いた時間を使っていたこともあって、半月以上かけて書きました。

 

ですが、もう少し。

最後に蛇足を。

先述の通りマイカンの弟のエド・マイカンもNBA入りしており、加えて息子のラリー・マイカンも1年ではあるもののCLEに所属していたんです。

まさにバスケ一家

そして本当の最後に。

見た目通り、オフコートでは穏やかな巨人だったが、オンコートではセンターということもあり激しいプレイスタイルで、当時のリーグで最もファウルが多い選手だった。プレーオフ中でも6ファウルを犯している試合は少なくない。

 

きっとマイカンほどルール改正の被害を受けた選手はいないだろう。それでもなお支配力を誇示し続けた彼は、真のスーパースターである。

そしてレブ郎として、1人のバスケットファンとして、マイカンに一言伝えたい。

 

ビッグマンの時代をありがとう。

僕が愛するユーイング、ジャバー、オラジュワン、シャックら全てのセンター達の祖先である貴方がいたからこそ、バスケットボールが世界中に広がったのかもしれない。   by レブ郎

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本当の最後に。

豪華な画像を1枚載せて、無理矢理幕引きさせて頂きます。

ありがとうございました。

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