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レブ郎が自由に書くブログです。

合併された幻の"ABA"

1967年、経営が上手くいき始めていたNBAはリーグ傘下のチーム数を10チームに増やし、ビル・ラッセル率いるBOSの1958年から始まった連覇は1966年に8連覇でようやく終わりを告げ、群雄割拠の時代を迎えようとしていた。

しかしNBAのチームを持たない都市の財界人達は、人気上昇中のプロバスケチームに興味を抱いていた。しかし、新たなチームを作ってNBAに加入するには高額な支払いが必要だった為、チーム作成に興味を持つ者達が集まり、新リーグ発足の声が上がったのだ。

こうして誕生したABAは主にNBAのチームが存在しない都市に創設された11のチームで成り立った。

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そんなABAの初代コミッショナーに招待されたのは1948年から1954年にかけて選手としてバスケットボールの概念を大きく変えたGeorge Mikanである。

コミッショナーNBA創成期の再重要人物を迎えたABAは、ライバルリーグのNBAよりも優れた選手を多く獲得するべくある策を打ち出す。

当時大学卒業生のみをドラフトの対象にしていたNBAに対し、ABAはそれらの制限を設けなかった。これにより高卒選手のドラフト指名がABAでは可能となったのだった。

さらにABAとNBAの間での選手の奪い合いも熾烈で、下手投げフリースローのリック・バリーはNBA→ABA→NBAとリーグを行き来しながらプレイしていた。

他にもジュリアス・アービングジョージ・ガービンなどNBAの歴史に名を残す名選手達の中にも2つのリーグでプレイした選手は少なくない。

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↑ABA初年度ロゴ一覧

 

そんなABAだが、リーグ自体はわずか9年という短さで幕を閉じてしまう。理由としては、いくつかの球団の著しい経営悪化だった。今でこそ大体のNBAのチームは毎試合大勢の観客が訪れており、シーズンを通して空席が過半数を超えるようなチームなど存在しない。だが当時のABAは1万人を超える観客が集まる試合もあれば200〜300人しか集まらない試合もあり、偏っているのは明らかだった。また、1970年頃からABAとNBAの合併を希望する声が出始めていた。

そして最後のシーズンとなった1975-1976シーズンには9つのチームがABAに在籍していたが、シーズン戦11試合目を終えたサンディエゴ・セイルズが将来性が無いとしてチーム解体を決断。皮肉にもセイルズはABAで唯一のエクスパンションチーム(簡単に言うとリーグ側がチーム数を増やす為に創設されたチーム)だったのだが、ABAが水面下で進めていた「NBAとの合併計画」にセイルズは含まれておらず、セイルズの未来は既に見捨てられていた事をオーナーが知り、解体の決断に至ったという。

その少し後にユタ・スターズもシーズン戦16試合目を終えた時点で解散。スターズはABA史上でもかなり成功していたチームだが、前年のABAチャンピオンシップゲーム(プレーオフ)での1回戦敗退に続き、4勝12敗とスタートダッシュに失敗してしまい解散を余儀なくされる。

この時点でABAからは2つのチームが解体され、リーグ全体で7チームとなっていた。

そしてこのシーズン終了後に2つのリーグが合併、そのうちNBAに吸収されたのは現在もNBAに所属しているサンアントニオ・スパーズインディアナ・ペイサーズデンバー・ナゲッツ、ニューヨーク・ネッツ(現在のBKN)の4チームだった。

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ABA自体は9年間と短い歴史だが、所属していたチームは移転や改名を含めると計28チームで、1シーズンで消滅したチームも少なくない。逆にファン目線で見ると、度々名称や本拠地を変更し、選手もリーグを超えて入れ替えながら戦うチームを愛するのは難しかったのかもしれない。

しかしこの9年間のABAの奮闘こそが今のNBAにとって重要だったことはあまり知られていないだろう。

ここからはABAというリーグの特徴を少し紹介しよう。

 

ABAは最後のシーズンを除いて『イースタン・ディビジョン』『ウエスタン・ディビジョン』という2つのディビジョンから成り立っており、各ディビジョン4位以内がプレーオフ進出という制度だった。ちなみに順位が同じ場合は現在のようなタイブレークではなく、順位決定戦を1試合行っていた。プレーオフは4戦先勝方式と現在のNBAと基本的な形はほぼ同じであるが、ABAは最終シーズンのみ7チームでプレーオフを迎えた為、上位5チームがプレーオフに出場。1st Roundは4位と5位だけで行い、その後は通常のトーナメント方式だった。

 

ここまではNBAと類似しているABAだが、リーグの存続を争っていたNBAと差別化を図るためにいくつかの独自の要素を取り入れている。その1つが『スリーポイントシュート』である。

NBAでは1979年に導入されたが、元々はABAがエンターテインメント性を求めて当時のコミッショナーだったジョージ・マイカンが導入したものである。そしてABA消滅から2年後にNBAに導入されている。現在のNBAではカリーを始め3Pに重点を置く選手やチームは多数存在しているが、奇しくもライバルリーグ発祥のルールの1つである。

さらにABAはショットクロックNBAの24秒に対し30秒と大きく時間を伸ばした。最後のシーズンではなんとファウルアウトの制度を撤廃し、6つ目のファウルを犯してもコートに残れる状態となった。何の意味があったのか...

(ただし相手チームにFT2本とポゼッションが与えられる)

 

"ABAが現代に遺したもの"

これまでの記述だと、ABAの遺産は『スリーポイントシュート制度』のみだが、これに関してはNBAのみならず国際ルールに採用されているという点も含め賞賛に値する点だろう。だが、さらに隠れたところにまだ"ABAの遺産"は残されている。

その1つがABAの象徴ともいえる3色ボールだろう。

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マイカンが考案したこのボールは愛国心として赤・青・白を用いたもので、試合中に見栄えが良いものである。

このデザインはNBAのレギュラーシーズンで使用されることはないが、どこかで見た覚えがあるはずだ。

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そう、オールスターのスリーポイントコンテストである。得点が2倍と勝敗を左右するあの貴重なマネーボールとして使われているのである。

 

さらに現在もオールスターで毎年行われているダンクコンテストも、元々はABAが最後のシーズンのオールスターに取り入れた画期的な取り組みの1つである。そしてバスケットボール史上屈指のダンカーとして名を残すジュリアス・アービングが決めたレーンアップ(FTレーンからのダンク)がもし無ければ、ダンクコンテストは存在しなかったのかもしれない。

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このようにABAが9年間の間、NBAに対抗すべく打ち出した独自の要素は結果的にNBAの発展に貢献している。

1つ加えておくと、3色ボールとスリーポイントシュート制度を取り入れたマイカンはバスケットボールというスポーツを選手の立場からも劇的に進化させた人物の1人で、バスケットボールの歴史は発案者のジェームズ・ネイスミスジョージ・マイカンだけでもある程度語ることが出来る。そのマイカンをコミッショナーとして迎えたことはABAにとってはかなり重要なポイントだろう。

なお、このマイカンに関する逸話は別記事でまたいつか紹介するのでお楽しみに(・ω・)

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最後にABA在籍経験のある有名な選手を何人か紹介していこう。

 

1.Julius Erving

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NBAファンなら誰もが聞いたことがあるだろう『Dr.J』の愛称で知られるABA史上最高の選手。ABAのみならずバスケットボール界の発展にも大きく貢献した選手で、あのジョーダンやレブロンが憧れた"元祖スラムダンカー"である。ちなみにレブロンがMIA在籍時に#6のユニフォームだったのは、MIAでジョーダンが永久欠番になっており、#23を着用できない為にもう1人の憧れであるDr.Jになぞらえて#6を着用していたのである。

オールラウンダーで何でもこなしていたアービングだが、特筆すべきはやはりその滑空能力だろう。先述した通り、ABA最後のシーズンでは初開催のダンクコンテストでレーンアップを決め、ABA消滅後にNBAでプレイしてからも華麗な滑空で観客を魅了し、後に大スターとなるジョーダンやドミニク・ウィルキンスら多くのバスケットボールファンを虜にしていた。

芸術品と称される彼の圧倒的なジャンプ力は『時計を見て家に電話をかける時間がある』と言われていた。

そんな彼のバスケ界への貢献として大きいのは彼の性格だった。とにかく紳士的だった彼とは相反し当時のNBAは薬物問題が蔓延し、スター選手が薬物によってキャリアを崩すパターンは少なくなかった。しかしアービングはいつでもメディアに対して丁寧に対応し、試合後にはアリーナに残り続けファンのサインなどに対応し続けるなどファンやメディアのみならず選手からも尊敬されていたという。さらにメディアとの対応中に自チームの新人や無名の選手らも絡めて知名度を上げるのに一役買ったり、スランプに陥った選手に自信を取り戻させるべく自分の得点チャンスを犠牲にしてその選手にチャンスを与えるなど、かなりの人格者だった。そんな彼によってリーグの汚いイメージは徐々に払拭され、人気向上のきっかけとなった。

アービングの偉大な業績に関してはまた別記事でまたいつか...(・ω・)

 

2.David Thompson

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この選手に関しては私には知名度のレベルがよく分からない。もしかすると昔の選手に疎い方には初耳レベルかもしれない。彼もABAの歴史の中では一際輝いていたスター選手である...が、先ほど紹介した薬物問題が蔓延した時期の選手であり、まさに、その薬物によってキャリアを滅ぼした1人である。

"スカイウォーカー"と呼ばれた彼は193cmのSGながら『バックボードの上に置いたコインを取ることができた』という逸話を持つ選手で、垂直跳び122cmという記録でギネスブックにも掲載されている。

そんな彼のシグネチャースキルとも呼べる『アリウープ・レーン』をご存知だろうか?当時のNCAAはダンクを禁止していたのだが、このルールに対抗するべく編み出されたトンプソンにしか出来ない技で、チームメイトがリング周辺に投げたアリウープパスをトンプソンがキャッチし叩き込むのではなく、リングの中心に上手く落とすというものである。

つまりリングより上からリングの中心を狙ってボールを落とすのである。これはバックボードの上に手が届くトンプソンにしか出来ない技で、チームのオフェンスパターンとして取り入れられていた。

ちなみに禁止ながら1度だけ彼はダンクを大学時代に決めており、もちろん得点は無効となりコーチの指示で即交代となったが、観客は大盛り上がり、得点せずとも会場の雰囲気を一気に変えた。

そんなトンプソンもジョーダンを魅了した1人であり、ジョーダン自身が殿堂入りとなった際のプレゼンターにトンプソンを選んでいる。

トンプソンは当時のルーキーのプロスポーツ史上最高額契約を塗り替えており、ダンクコンテストではアービングのレーンアップに対抗して360°を決めるなど、華々しいキャリアを送っていた。

しかしNBAを侵食する薬物問題に取り込まれたのをきっかけにアルコール依存症にもかかるなど、一気にキャリアを崩し始めていた。練習の遅刻や欠席が増えながらもオールスターには選ばれていたが、その矢先に足首の靭帯を損傷。

シーズンのほとんどを欠場していた彼が薬物・アルコールにさらに取り込まれるのはやむを得なかった。

そして1983-1984シーズン中、アウェイ戦後に泥酔状態で階段を踏み外し左膝を故障。そこからコートに戻る日は2度と来なかった。

彼のキャリアは時代さえ違えばさらに輝いていたのかもしれない。

 

3.George Gervin

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表情を変えずに静かに、しかし心の内で闘志を燃やすことから『アイスマン』と呼ばれた名選手。ABA時代にジュリアス・アービングとチームメイトにもなったことのある彼はスパーズの歴史の中でも"提督"ロビンソンやダンカンと並んで非常に愛された選手である。フィンガーロールを得意とし、NBA史上4人しかいない得点王×4を達成した内の1人で殿堂入りも果たしている。SASのイメージが強いが引退前に1シーズンだけCHIでもプレイしている。

 

4.Moses Malone

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↑※右下に写っているフックシューターではありません

NBA史上屈指のタフガイとして知られる彼もABA経験のある選手の1人である。ABA経験を持つ最後のNBA選手として1995年までプレイしていた。

高校時代にはチームを牽引し50連勝を達成するなど名を知らしめると、高卒でABA入り。身長は208cmとセンターとしては高くないものの全盛期は他を圧倒する支配力を誇り、特にオフェンスリバウンドに関してはABA時代の2シーズン分の記録を除いても史上最多の通算6731本(キャリア平均5.1本)ととにかく強かった。ジュリアス・アービングと組んでいたPHI時代には『全勝優勝宣言』を行い、惜しくも1敗したものの圧倒的な強さで優勝している。

2015年にホテルにて意識不明の状態で発見され、永眠。60歳と早すぎる偉人の死去だった。

 

5.Rick Barry

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NCAA、ABA、NBAの全てで得点王となった唯一の選手で、とにかく得点力に関しては追随を許さない。201cmのSFとしては高いクイックネスを併せ持ち、加えてシュートのバリエーションも豊富で、フック・フェイダウェイ・セットシュートなどあらゆるシュートを左右どちらの手でも放つことができた。

しかし彼がファイナル平均36.3点で歴代1位なのは技術だけが理由では無い。バリーはとにかく逆境に強く、あるシーズンで地元ファンがPO進出すら期待していなかった状況からファイナルに進出。ファイナルの相手はリーグ内でダントツ首位の成績を残していたにも関わらず、スウィープで勝利。この1975年ファイナルの出来事は『NBAファイナル史上最大の番狂わせ』とされている。

ただ逆境に強い反面、あまりにも自己中心的で敵味方関係無く怒鳴り散らすことから『バリーを国連に送り込めば第三次世界大戦が起こる』とまで言われた。

ちなみにバリーと言えば下手投げフリースローが印象深いが、これはバリーが編み出したフォームというわけではなく、1940年代頃まではむしろ下手投げフリースローが主流だった。

 

いかがでしたか?

ABAについて少し詳しくなったあなたはまた少しNBAオタクに近付いたでしょう(・ω・)

これを言うと今までの話はなんだったのかとなるのですが、実はABAは現在も運営しています!

 

と言っても少し複雑なのだが...

今回の記事に書いたABAと同じ名前のリーグで、1999年に設立。NBA傘下のDリーグ(来季からはGリーグに改名)と似たような存在で、NBA入りの機会を窺う選手が多く在籍している。設立以降、着実にリーグを拡大されておりアメリカのみならずカナダやメキシコにもチームが存在し、現在84チームが加入している。

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なんとチーム数の多いこと...

ロゴを見ても分かる通り、それとなく名残りのある雰囲気にしているのが良いですね。

 

それにしてもやはり昔の勉強は良いですねぇ。歴史が深い。

特にジョージ・マイカンは星の数ほどエピソードがあるので、次かその次くらいに書きます(・ω・)

 

ということで今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

そして読破おめでとうございます(・ω・)

 

では、また──────

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