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Team History "GSW"

チームの歴史を紹介するLeBlogの新シリーズ第1弾は現在NBAの先頭に立つGSWです。最近NBAファンとなった方も、NBAならある程度知っているという方も、GSWを起源から現在までの流れを知ることで、また少し見る目が変わるのではないかと思います(^ ^)

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Golden State Warriorsは創設1946年、つまりNBA設立時から存在する11チームの1つである。

(正式には設立当初はNBAではなく、BAAというリーグだった)

創設時の本拠地はフィラデルフィア、その為 Philadelphia Warriorsだった。そしてWarriorsの由来は実はこのフィラデルフィアが関係している。

独立戦争の際にフィラデルフィアは重要な土地であり、戦争を戦った戦士達への敬意を込めて"Warriors"となったのである。

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Philadelphia Warriorsのロゴ

 

そしていよいよ始まったBAA最初のシーズン、11チームによる争いの末、頂点に立ったのはこのWarriorsである。

実はこの創設当時のWarriorsには、あまり知られていないがNBAの歴史を語る上で欠かせない人物が1人いる。

それがジョー・ファルクスである。

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ご存知だろうか?

殿堂入りも果たしている名選手で現役時代『ジャンピング・ジョー』と呼ばれていた彼は、当時まだセットシュート(地面に足をつけたままシュートを放つこと)が主流だった中で彼はジャンプシュートを使い得点を量産。この空中でシュートを打つ姿にファンだけでなく選手達にも衝撃を与え、ジャンプシュートが普及するキッカケとなった。

ここから少しの年月が経ち1956年。

※細かく書くとキリが無いうえこの時代の情報が少ない為に省略。

この時の中心選手がニール・ジョンストンという当時リーグNo.1センターとして後に殿堂入りしている選手と、もう1人がポール・アリジンという選手である。

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このアリジンがまた先ほどのファルクスと同じくジャンプシュートを先に取り入れていた選手なのだが、アリジンがジャンプシュートを使うキッカケがこれまたすごい。

高校生の時に監督から戦力外とされてしまい校内や教会などの小さな独立チームに複数所属してプレイしていた彼は時にダンスホールでプレイすることもあった。滑りやすいダンスホールでのセットシュートが非常に難しく危険だった為にジャンプして空中でシュートを打つようになる。そしてそのまま彼は会場がダンスホールで無くても試合中のシュートは全てジャンプシュートで打つようになる。こうして誰から教わったわけでも聞いたわけでもなく、独自にジャンプシュートを生み出したのだった。ちなみに大学時代には開花し得点を量産、とある試合では85点を記録したという。

そしてアリジンとジョンストンという強力な2人を擁したWarriorsは球団史上2度目となる優勝を果たす。

 

その優勝から3年後、カンザス大でその名を知らしめた怪物がNBAにドラフト入りを果たす。

Warriorsに指名された彼の名は

Wilt Chamberlain

あの伝説の巨人である。f:id:LBJ1107ryo:20170529201453j:image

と、ちょっとここでドラフトの豆知識。

実は当時のNBAには「地域指名」という制度があり、チーム本拠地から50マイル圏内の大学出身者を指名できるというものであった。チェンバレンはこの地域指名によりWarriorsに加入している。

しかしここで疑問が浮かぶ。

カンザス大というのはカンザス州にあり、Warriorsの地元フィラデルフィアペンシルベニア州。地元指名の条件はチーム本拠地から50マイル圏内であること。カンザス州からペンシルベニア州までは約1200マイル離れている。つまり地域指名するには1100マイル以上オーバーしているのだ。

が、ここで当時のWarriorsのオーナーであるエディー・ゴッドリーブは何とかしてチェンバレンを獲得したいという一心でチェンバレンフィラデルフィア出身であることを訴え強引に指名する。リーグもそれを認め、チェンバレンNBA歴史上唯一の『出身地を理由に地域指名された選手』となった。

ちなみにチェンバレンを指名する7年前、ゴッドリーブがWarriorsを買収した際の金額は25007ドル。そしてこのチェンバレンは新人ながら当時歴代最高金額の30000ドルで契約している。

これだけでも如何に彼が期待されていたかが伺えるだろう。しかしこの大きすぎる期待にチェンバレンは120%で応えるのだった。

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デビュー戦、いきなりの43点 28リバウンドを記録。シーズン中に50点超えを7回達成し、リーグ史上初のシーズン平均30点超えを果たした(チェンバレンのルーキーイヤーは平均37.6点で、それまではボブ・ペティットの平均29.2点)。

ルーキーイヤーにして得点王・リバウンド王・新人王・シーズンMVP・オールスターMVPの5冠を達成する。チームも前季の32勝から49勝と成績を伸ばし、チェンバレンの影響からかリーグ全体の1試合平均得点が108.2点だった前季から115.3点と大幅な伸びを見せている。

個人賞を新人にしてほとんど獲得したチェンバレンを擁するWarriorsだったが、POではビル・ラッセ率いるセルティックスに2勝4敗で敗退してしまう。

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そして翌年、Warriorsの大黒柱であるチェンバレンはまたしても得点王とリバウンドを獲得する。しかしPOではナショナルズ(現76ers)にスウィープされ敗退。

チェンバレンのデビューと入れ替えで引退しWarriorsのHCをしていたジョンストンだが、この時既にチェンバレンとの関係が悪化しており、翌シーズンにWarriorsは新HCとなるフランク・マクガイア(NCAA決勝でチェンバレン率いるカンザス大を破った時のノースカロライナ大のHC)を迎え入れる。

するとこのHCの指揮によりチェンバレンは自身の才能を最大限に発揮、シーズン平均50.4点 25.7リバウンドという桁違いの大記録を叩き出す(当然のように3年連続得点王&リバウンド王)。

POでも前季にスウィープという屈辱を受けたナショナルズ相手に3勝2敗と雪辱を晴らす。

しかしここで再びセルティックスが立ちはだかる。3連覇がかかっていたセルティックスとのシリーズは最終戦までもつれるも2点差で敗退。RSで毎試合50点を取るチェンバレンを擁しても優勝できなかったことに批判の声が続出、シーズンMVPを獲得したのもシーズン平均50.4点のチェンバレンではなく60勝を達成したセルティックスの大黒柱であるビル・ラッセルだった。

 

オフになるとチェンバレンを獲得して以降チェンバレンをチームの中心として扱い続けていたゴッドリーブオーナーがチームを売却。サンフランシスコの実業家の手に渡るとチームも本拠地をサンフランシスコに移動しサンフランシスコ・ウォリアーズに改名。しかし、この本拠地移動がチームを崩壊に導くこととなる。

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フィラデルフィアに家族がいるアリジンは引退、シーズン中にホームシックになったトム・ゴーラという選手はトレードを要求し、マクガイアHCは1年目にして解任。代わりにNBAでのHC経験の無いボブ・フィーリックが着任する。

チェンバレンは前季に劣らない素晴らしいスタッツを残し4年連続の得点王&リバウンド王となるもアリジン達が抜けたWarriorsはPOを逃してしまう。

するとオフには早速フィーリックHCを解任。代わりに迎え入れたアレックス・ハナムは選手兼監督として1958年に当時無敵と言われていたセルティックスを破って優勝した非常に優秀なHCだった。

チェンバレンにとってNBA入り以降ハナムHCほど優秀なHCに出会うのは初めてであり、これまでのHCと違いチェンバレンに物怖じすることなく意見を伝えることができるハナムHCはチェンバレンと度々口論しながらもプレイスタイルの変化を要求。徐々に変化を見せたチェンバレンはキャリアワーストの平均得点(キャリアワーストながら36.9点で得点王獲得)となるもアシスト数を大幅に伸ばした。

またこのシーズン、後々殿堂入りを果たすネイト・サーモンドが加入している。

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↑Nate Thurmond

百戦錬磨のハナムHC、優秀な新人サーモンド、プレイスタイルを変化させたチェンバレンが率いるWarriorsはPOに復帰、そのままファイナル進出を果たす。

しかし、このファイナルで立ち塞がるのはまたしてもセルティックスだった。

悲願の初優勝に挑んだチェンバレンだが1勝4敗で敗退。セルティックスはこの時点で5連覇を達成したのだった。

優勝を目前にしてまたしても阻まれたWarriorsは翌シーズン財政難となり、高額な給料を必要とするチェンバレンをついに手放す決意をする。チェンバレンシクサーズにトレードしたWarriorsは見返りとして3人の選手と15万ドルを手にした。

チェンバレンを失ったWarriorsは17勝63敗と成績を急降下させるもオフのドラフトでは2位指名でリック・バリーを獲得。ドラフト当時は度々乱闘を起こす気性の荒さに批判ばかりされていたバリーだが、ルーキーながらシーズン平均25.7点を記録しチームも35勝を記録。POこそ逃したものの、新人王となったバリーがチームの中心を担うWarriorsは新HCとなるビル・シャーマン(セルティックス黄金期を支えた選手の1人)の指揮の下その翌年にPOに出場。さらにチェンバレンの連続得点王回数を7で止めたのもバリーだった。

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↑FTが下手投げな事で有名なバリー

シーズン平均35.6点を記録したバリー率いるWarriorsの勢いは止まらず、見事にファイナル進出を決める。そしてこの年、長かったセルティックス王朝に終止符を打ったのがチェンバレン率いるシクサーズだった。Warriorsを大きく上回る68勝を記録していたシクサーズを相手にバリーは第3戦でファイナル歴代2位となる55点を記録する。シリーズ平均40.8点という活躍を見せるもファイナルは2勝4敗で優勝には手が届かなかった。

そしてオフとなる1967年、Warriorsにとって厄介な出来事が起きる。

NBAのライバルリーグとなるABAが誕生し、ABAはNBAの選手やファンを奪おうと試みる。

Warriorsにとって最悪の出来事はサンフランシスコ近郊のオークランドを本拠地とするオークランドオークスがバリーの引き抜きを画策したことだった。

オークスのオーナーは巨額の契約金に加え、バリーの大学時代の恩師をHCとしてオークスに迎える。Warriorsもオークスと同額の契約を提示するが、当時WarriorsのHCだったシャーマンとバリーの関係が悪化していたこともあってバリーはABAのオークスに移籍することを決断した。

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↑逆に今の時代にこんなロゴのチームがいて欲しい気もする

リーグ屈指の点取り屋を失ったWarriorsはここから思うように成績が伸びず、1969-1970シーズンにはついにPOを逃してしまう。

しかしそんなWarriorsに1972年、6年ぶりにバリーが帰還する。当時既に3Pラインを採用していたABAでプレイしていたこともあり、バリーは以前よりもシュートエリアを拡大させ、さらにパスセンスも向上させていたが、代わりに膝に爆弾を抱えていた。復帰年の1972-1973シーズンではキャリアワーストの平均22.9得点となったものの自己最高となる平均4.9アシストを記録。

翌年には47勝を記録したWarriorsが60勝をあげたカリーム・アブドゥル=ジャバー率いるバックスを破るアップセットを見せるも、2ndラウンドで1勝4敗で敗退。

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↑当時チェンバレン以来の衝撃を走らせたジャバー

その翌シーズンには主要スタッツの4部門で10位以内に入りオールNBA 1stチームに選出。しかしチームは前年より3勝少ない44勝でPOを逃してしまう。

 

するとここでWarriorsはこの状況を打破するべく大胆な行動に出る。

ドラフト入り以降チームを支え続けたネイト・サーモンドと前シーズンで全試合先発を務めていたカジー・ラッセルを放出、代わりに得たのは放出した選手に見合うほどの選手ではなく、Warriorsは成績を落とすだろうと予想された。

そんな中で始まった1974-1975シーズン、批判を覆すことに燃えるタイプであったバリーは30歳ながら絶頂期を迎え、平均得点リーグ2位 平均アシスト 6位に加え平均スティールとFT%でリーグ首位となる。48勝を記録したWarriorsはPO出場のみならずディビジョン1位を獲得し、見事に第1シードを獲得。当時のHCであるアットルスが導入した10人の選手をローテーションに組み込んだオフェンスによってチーム平均得点はリーグ1位(108.5点)を記録している。

POではカンファレンスファイナルこそ第7戦までもつれたものの見事にファイナル進出を決める。

しかし、このWarriorsの相手はリーグ60勝を記録したワシントン・ブレッツであった。ウェズ・アンセルドとエルヴィン・ヘイズを擁していたブレッツ相手にWarriorsはRSで1勝3敗と負け越しており、劣勢との声が大半であった。

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↑後にこの2人は殿堂入りを果たしている

 

さらにこのファイナルでは会場の都合上で通常フォーマット(2-2-1-1-1)方式ではなく、1-2-2-1-1という特殊な方式となった。これはホームコートアドバンテージを持つブレッツが初戦はどうしてもホームコートで行いたいという希望によるものだった。

ワシントンで行われた初戦、先発・ベンチ共に活躍したWarriorsが勝利。予想外な初戦を落とす事態となったブレッツはホームコートアドバンテージを奪われ、さらにここから2戦を敵地で落とし絶体絶命の危機に晒される。

そして3連敗でホームに戻ったブレッツは3試合で平均35点を取っていたバリーを抑えるべく1Qからハードファウルを仕掛ける。短気で乱闘を起こしがちなバリーもこれに対し激怒。しかしアットルスHCが咄嗟の判断でバリーの前に入り食ってかかるという『バリーの保護』に出る。これによりアットルスHCが退場処分となるが、これによりチームは奮起。

前半の14点ビハインドを跳ね返し見事に勝利、敗退が予想されていたWarriorsはあまりにも想定外なスウィープでの優勝を飾ったのだ。

バリー自身が『NBAファイナル史上最大のアップセット』と語るこのファイナルも含め、PO進出を疑われていたWarriorsがスウィープで優勝したことは誰にとっても予想外であった。

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そしてここでこのLeBlogにも予想外な事態が起きている。

長すぎる。長すぎるのだ。

約6000文字となったこの時点でまだ20年しか進んでいない。

1975年を今終えたのであと40年ほど歴史は残っている。

ここまで読み続けてくれている方、本当にありがとうございます。書いている価値があります。

 

ご安心を。ここからは少しペースを上げていきます。というより正確に言うと、ペースが上がるんです。

Warriorsは長い低迷期に突入するのですから...

 

優勝後である1975-1976シーズン、リーグ1位となる59勝という成績を収めたものの、カンファレンスファイナルで敗退。このシリーズ中にチームメイトとの口論があったバリーは戦犯として指摘され、批判の対象となる。

そして翌シーズンにバリーがチームを去って以降、チームは成績を上げることが出来ず、リーグの下位層もしくは中堅のあたりを彷徨い続ける。

そして迎えた1985年、後に名を馳せるクリス・マリンを7位指名。1988年にミッチ・リッチモンドを5位指名。1989年にティム・ハーダウェイを14位指名。

得点能力に長けていたこの3人はドン・ネルソンHCの指揮の下でWarriorsをリーグNo.1の得点力を持つチームに変化させる。そして当時有名だったラッパー「RUN-D.M.C.」と掛けて

RUN TMC』と呼ばれるようになった。

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しかしPOでは思うように結果を残せず、1991年のシーズン中にリッチモンドがトレードされ『RUN TMC』は解体される。95年にはネルソンHCもチームを離れる。

ここから低迷を続けたWarriorsはネルソン以降HCの交代を繰り返し、97年にPJ・カーリシモが就任。

しかしこのカーリシモは暴言を吐く癖があり、この時のチームのエースにして暴君のラトレル・スプリーウェルと衝突、そして起きたのがあの有名なスプリーウェルがカーリシモに行った首絞め事件である。

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これにより無期限停止処分を受けていたスプリーウェルはNYKへトレード。

 

恐らくここからはリアルタイムで見ていたファンの方も増え始めると思うので、さらに省略していきます...

 

1998年ドラフトにてアントワン・ジェイミソン、2001年ドラフトでジェイソン・リチャードソンとギルバート・アリーナスを獲得した。

しかし、アリーナスとリチャードソンは再建の中心として期待されていたものの移籍。そして2004年にはRUN-TMCの一角であったマリンが副社長に就任。トレードでバロン・デイビスを獲得するなど再建を目指していたがネルソンHCを解任以降1度もPOに辿り着けないWarriorsはネルソンHCを再び迎え入れる。

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するとネルソンHCの再就任初年度、13シーズンぶりにPO出場を果たす。

1stラウンドではDAL相手に7試合制導入以降初の第8シードが第1シードを破るアップセットを達成。

しかしこれ以降5シーズンに渡ってPOを逃し続ける。

だが、この5シーズン(2007-2012)の間こそまさに現GSWへの布石である。

 

09年ドラフトでは7位指名でステフィン・カリーを指名、さらに11年ドラフトの11位でクレイ・トンプソン。後にスプラッシュブラザーズとなる2人はここで入団している。

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そしてマーク・ジャクソンがHCに就任。

さらに12年ドラフトでは後に球団史上屈指の掘り出し物となるドレイモンド・グリーンを35位で指名。

そして2012-2013シーズンにPO復帰を果たしている。

今でこそ定着しているアウトサイド中心のオフェンスやファーストブレイクでの3Pだが、当時はまだ『アウトサイド主体では勝てない』という概念が存在しており、この概念を打ち破ったWarriorsの戦術はNBAの歴史に間違いなく残るだろう。

 

と長々と書いてきたWarriorsの歴史ですが、如何でしたか?

 2017/5/29現在 KDの加入よりただでさえ少なくなかった批判が更に増したGSWですが、過去を見て何か感じませんでしたか?

チェンバレンの時代、バリーの時代、RUN TMCの時代、そして現在のスプラッシュブラザーズ。

僕は前々からずっとWarriors=攻撃的な戦術の球団と勝手にイメージしています。笑

 

最近NBAを見始めた方にとっては馴染みの無い名前ばかりで読みづらい記事だったかも知れませんが、過去を知ることはすごく大切だと私は思っています。

もし、チェンバレンがWarriorsにいなかったら?ゴッドリーブがチェンバレンを強引に指名しなかったら?ゴッドリーブがチェンバレンをチームの中心として自由にプレイさせていなかったら?

1試合100得点の大記録も、シーズン平均50点超えも、無かったかもしれません。

すごく単純な考え方ですが、チェンバレンが黄金期をもたらさなかったら、今紹介してきた黄金期と低迷期の時期が入れ替わっていて、カリーはGSWではなく他のチームに指名されていたかもしれません。

今回の記事を始めに残り29チームの歴史も今後書きたいと考えています。

 

ということでLeBlog史上初の8000字を超えたこの記事を終えたいと思います。

最後まで読んでくださった方は本当にありがとうございます。

サーっとスクロールして今ここに急に辿り着いた方も一応ありがとうございます(・ω・)

 

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