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レブ郎が自由に書くブログです。

"The Big O"

Triple Doubleという記録、これはNBA選手にとって1試合達成するだけでも素晴らしい功績とされている。

そのことを再度確認しておきたい。

Triple Double(以下TD)は1シーズンにリーグ合計で117回起こるなんてのは通常ありえないことである(117回とは今季のリーグ合計達成回数)。

その要因の大半はウエストブルックである。今季はヨキッチやアンテトクンポなどハーデンやレブロン以外にも多数が達成しているが、やはりウエストブルックの印象が圧倒的に強い。ましてシーズン平均TDなんてのは現代においては有り得ない記録である。

ご存知の通りシーズン平均TDはNBA史上でオスカー・ロバートソンとラッセル・ウエストブルックの2人しか達成していない。

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恐らく今季からNBAを見始めた方もビル・ラッセルを知らなくてもオスカー・ロバートソンは知ってるだろう。

では、皆さんはどこまでオスカー・ロバートソンの偉大なる功績を知っているだろうか?時代が違う為に比較すべきではないものの、ロバートソンはNBA史上最高の選手を議題にして話し合えば名前を出されるほどの選手である。単にシーズン平均TDを達成したから偉大なのではない。それを皆さんに今回は紹介したいと思う。

 

1.バスケット選手となるまで

彼の生まれた時代は人種差別が強く、白人と黒人で住む地域が分かれていた時代である。インディアナポリスで幼少期を過ごした彼は、当時大半の子供が熱中していた野球をするだけの道具を揃えるお金も無く、果物かごを壁に吊り下げてテニスボールを布で巻いたものを投げ入れて遊んでいた。事実上これがバスケットボールのキャリアの始まりである。

やがて高校の進学を迎えるが、バスケができる高校を探す彼にとって当時は黒人の入学を拒む白人学校が多いうえにバスケができる体育館がある黒人学校が非常に少なく、クリスパス・アタックス高校という一択に絞られた。だが、このアタックス高でコーチを務めていたレイ・クロウに出会うことが彼にとっては大きな人生の転機だった。クロウは彼の身体能力に可能性を感じ、基礎から徹底指導した。そしてクロウにより大躍進を遂げたロバートソンは2年生にしてチームを州ベスト4まで導き、翌年には31勝1敗という圧倒的強さで州を制覇(黒人学校として初の快挙)。翌シーズンに入っても強さは変わらず、前シーズンから数えて45連勝を記録し、シーズン全勝+州連覇という偉業を達成。州のMr.バスケットボールに選ばれた彼だったが、それでも優勝記念パーティーを開こうとした際に街から追い出されるなど相変わらず差別を受けていた。

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↑彼が進学したシンシナティ大学

 

シンシナティ大学に進学以降も、3シーズン連続でNCAA得点王・最優秀選手賞・オールアメリカンに選ばれる。さらにMSGで行われたトーナメント大会では2年生で52点、3年生で62点を記録し、当時のカレッジバスケ界のトップに君臨していた。在学中79勝9敗で、2度ファイナル4にも進出するが優勝できず卒業を迎えた。

卒業後、オリンピックにアメリカ代表として出場。

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フォワードと登録されたロバートソンだったが実質PGとしてジェリー・ウエスト、ウォルト・ベラミー、ジェリー・ルーカスを含む12人のチームを牽引し平均42.4点差をつけて見事金メダルを獲得。ドリームチーム以前のチームとしては最高と言われている(12人中10人が後にNBA選手となる)。

 

2.世界最高の舞台へ

1960年にドラフト1位指名を受けてシンシナティ・ロイヤルズに入団。

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すると1年目にして平均30.5点 10.1リバウンド 9.7アシストを記録。平均9.7アシストは当時のNBAでは過去最高の数字となり、さらに平均30.5点もリーグ3位だった。当然オールスターにも選出(この後12年連続で選ばれ続ける)され23点14アシストでオールスターMVP獲得し、もちろん新人王に選ばれた。

さらにオールNBA1stチームにも選出(これも今後9年連続で選ばれ続ける)され、ルーキーにしてリーグトップレベルに到達したのであった。

 

3.伝説の1961-1962シーズン

ロバートソンと言えば、やはりシーズン平均TDだろう。先ほど紹介したルーキーシーズンの成績の時点でほぼTDに近い。実はシーズン平均TDを達成したのはこの翌年、つまり2年目である。

30.8点 12.5リバウンド 11.4アシストで、リーグ初となる平均アシストで2桁を記録し、チームをプレーオフに導く。

さらにプレーオフでも平均TDを記録したものの、敗退している。

(ちなみに彼はNBA入りから5シーズンの平均スタッツが30.4点 10.4リバウンド 10.6アシストとTDなのである)

彼がシーズン平均TDを達成したのは1961-1962シーズン。何か思い当たるシーズンではないだろうか?

あのウィルト・チェンバレンが伝説の1試合100得点 シーズン平均50.4点 25.7リバウンドを記録したシーズンである。

結局このシーズンはロバートソンはMVPに選ばれなかった。

しかし、チェンバレンもMVPではなかった。

では誰がMVPだったのか。

 

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当時チェンバレンと双璧を成した伝説のビッグマン、ビル・ラッセルである。

NBA初のRSでの60勝到達(60勝20敗)を記録したセルティックスを率いた彼は、シーズン平均18.9点 23.6リバウンドながらロバートソンとチェンバレンを抑えてMVPに輝いたのだ。

今思えばこの時から既に勝利への貢献度は個人スタッツよりもMVPを選出するうえで重視されていたのだろう。

毎試合50点を出していたチェンバレンとファイナルで対戦するも結局セルティックスが優勝し4連覇を達成したのであった。

 

4.ついに栄光へ

セルティックス王朝だったNBAだったがロバートソン率いるロイヤルズは1962-1963シーズン、5連覇を目指す最強セルティックスと対戦し第7戦で惜しくも敗退。

 そして翌シーズン、新HCの下でロイヤルズ史上過去最高の55勝を記録、ロバートソンはついにMVPを獲得した。

ちなみにこのロバートソンのMVPは60年代の中でチェンバレンラッセル以外の選手が受賞した唯一のMVPである。

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(逆に言うと10シーズン中9シーズンはこの2人でMVPを取り合ったのである)

しかし昨シーズンに5連覇を達成しているセルティックスにまたしても敗れ優勝には届かず。

MVPという個人賞としては最高の栄誉を浴びたものの、最高の舞台"ファイナル"に立つことは叶わなかった。

 

5.突然の移籍

以降のロバートソンも個人スタッツは凄まじく、ロイヤルズ所属中に6度のアシスト王となるなど、十分な成績だったが、プレーオフでは3年連続CSF敗退などチームは勝ち上がれず。

1967-1968シーズンにはついにプレーオフに出ることすら出来なかった。地元ファンも勝てないチームに応援の熱は薄れていく。

そして1969-1970シーズン、当時ロイヤルズのHCを務めていた伝説の選手ボブ・クージーがチームの為に選手として復帰、HC兼選手となった。しかし、チームは成績を上げることはできず、ついにこのシーズン終了後にバックスとの間でトレードが成立。

チームの中心として引っ張り続けたロバートソンが突然トレードされたのである。なぜ突然放出されたのかファンは困惑したが、クージーHCとの確執が原因とされており、確たる証拠は無かったもののクージーは自身の保持していた様々な記録を塗り替えるロバートソンに嫉妬していたと言われている。

 

6.伝説のデュオ誕生

ロバートソンのトレードから少し遡り1969年ドラフト。

NBAには新たな支配的プレイヤーが現れた。

大学で強烈な存在感を放ち、当然の如く1位指名されたルー・アルシンダーである。

ところで、皆さんはアルシンダーをご存知だろうか?

 

スラムダンクを読んだり、昔のNBAに興味がある方なら必ず知っているはずだ。なにしろNBA史上最高のセンターの1人とされており、必殺技"スカイフック"を武器に通算得点記録歴代1位となったあの選手なのだから。

 

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 そう、アルシンダーとは後々改名しカリーム・アブドゥル・ジャバーとなった彼である。

そして彼が指名されたのはバックスだった。

ルーキーながら圧倒的な活躍で前年から勝ち星を2倍にしたアルシンダー、オフにリーグトップクラスのPG ロバートソンを獲得したバックスはリーグ最高となる66勝を記録、当時NBA新記録となる20連勝を達成したうえ、ロバートソン自身ロイヤルズ時代は1度も立てなかった念願のファイナルの舞台に進出。

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ファイナルではウェス・アンセルド、ガス・ジョンソン率いるボルティモア・ブレッツと対戦。ファイナルまで2敗しかしていなかったバックスはファイナル4連勝でスウィープ。ロバートソンは移籍1年目にして優勝を成し遂げた。

 

7.そして終幕へ

 優勝した翌シーズン、既に12年目で33歳の彼は慢性的な足の故障をかかえることになった。さらに長年追い求めた優勝を手にしたこともあり引退を考えていた。だが、ここからバックスで3年間プレイ。彼が在籍した4年間バックスはディビジョン制覇し続け、3年連続60勝超えを果たすなどリーグトップクラスであり続けた。

そしてロバートソンにとってラストシーズンとなる1973-1974シーズン、彼にとって2度目のファイナル進出となる。

しかし、有終の美を飾るこのチャンスの前に立ちはだかったのはまたしてもセルティックスだった。

ビル・ラッセルは既に引退していたが、ジョン・ハブリチェックとデーブ・コーウェンスという後のレジェンド達が率いる緑の軍団とまたしても第7戦までもつれる大激戦の末に敗北。

ついに引退を決意し、ロバートソンはNBAを去った。

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8.彼の残した功績

ロバートソンのラストシーズン、バックスは59勝という好成績だった。しかしロバートソンが去った翌シーズンのバックスは38勝という成績の変化がロバートソンの影響力を物語っている。

 

ロバートソンがNBAに残した影響は大きい。

196cm 100kgという体格は当時の基準ではフォワードとなり、当たり強さに加えてスピードはガード並み、さらにバスケIQが非常に高かった為、いわゆる現在のレブロンにあたる選手である。

またレブロンマジック・ジョンソンのようなポイントフォワードというスタイルの先駆者で、当時のバスケの常識を大きく覆した。

また近年ではごく普通の技術であるヘッドフェイクやフェイダウェイシュートは当時はまだそれほど知られていない技で、ロバートソンが普及させた技術と言われている。

そんな彼のキャリアを振り返る中で必ずポイントとなるのが、先ほど紹介した『シーズン平均トリプルダブル』である。

が、実はこの記録を達成した当時はトリプルダブルという概念そのものが無かった。というのもそもそも平均アシストが2桁というのが当時では考えられない記録でロバートソンが初の2桁に乗せた張本人だからである。その為、ロバートソンがキャリアで181回もトリプルダブルを達成していたことなど認知されていなかったのである。

 

ところが1980年代にマジック・ジョンソンがトリプルダブルを連発。すると、トリプルダブルという記録を改めて調べ直すとロバートソンのとんでもない記録が発覚したのである。

また、カレッジバスケ界ではロバートソンの功績を讃えて栄誉ある賞の1つに「オスカー・ロバートソン・トロフィー」という名前が付けられている。

 

9.オスカー・ロバートソン訴訟

ロバートソンの残した偉大な功績の中でも特に大きいのがこの訴訟である。

詳しく語るとかなり難しい話になってくるので少し軽く(今回の記事が長すぎて疲れているというのが本音ですが)説明すると、

現在世界のあらゆるプロスポーツリーグよりもNBA選手の平均年棒が高いのは、ロバートソンが選手会長を務めていた時期に制定したフリーエージェント制の確立による、リーグに対する選手の立場の向上がキッカケだと言うことである。この制度の制定の為に6年間に及ぶ裁判を行ったロバートソンのおかげで年棒が上がり始めたのだ。

 

選手会長として、NBA選手として、大学生として、あらゆる立場からバスケに影響をもたらし、史上最高のオールラウンダーと呼ばれる彼の凄さが少しは伝わっただろうか。

最後に一言だけ、言いたい。

5000文字突破しているんです。

読み直しながら書き足して書き直してを繰り返す結果5000文字に達しているんです。

 

前回のバスケの起源の記事に比べて、少々読みづらくなっていると思いますが、

最後まで読んで頂き、

本当にありがとうございました。

そして、

読破おめでとうございます(・ω・)

 

最後に殿堂入り選手であるネイト・サーモンドがオスカー・ロバートソンの凄さを物語っている名言があるのでこれを今回は締めの言葉にさせて頂きたい。

 

オスカーは高く跳べなかったが、

それ以外は全てが

ジョーダンより上だ。