世界最高峰のバスケ選手が集うNBA。
しかし当然ながら優勝出来るのは毎年30チームの中から1チームのみだ。NBAという夢の舞台に辿り着いても、優勝という目的を果たせぬまま去る選手は数え切れない。故に優勝したチームの選手のみが手にする優勝リングは非常に希少なものである。
だがそんな中、11個の優勝リングを所持する桁外れな男がいる。

Bill Russellだ。リーグ史上最高の選手の1人であり、守備に対する概念を覆した偉大な人物である。
彼が率いたBOSはリーグの中でも特に今後塗り替えることが不可能だと思われる記録の1つ、8連覇を達成している。
今後長期に渡りLeBlogではこの8連覇の裏側とその関係者達の歴史を記載していこうと思う。
今回は第1弾として、8連覇の大黒柱"Bill Russell"のキャリアを少し辿ってみよう。
1.厳しい環境に生まれた1人の黒人
1934年、厳しい人種隔離政策が敷かれていたルイジアナ州ウエストモンローにBill Russellは誕生した。8歳の頃には周りの黒人達と同じく職を求めて一家でオークランドに移住するも、生活は改善されぬまま低所得者が集まる住宅に住んでいた。12歳の頃には母親が亡くなり、職を転々としながら家族を支える父親に憧れながら少年時代を過ごした。

↑嘘みたいだが、本当に黒人が虐げられていた
少年時代のRussellはバスケ選手として特に期待されるような活躍はしていなかった。身体能力が高く、手も大きかった為 バスケ選手に向いていたが、バスケに対するIQが低く、中学時代にはチームから追い出されている。
高校生の時にもチームから追い出されそうになったが、コーチのジョージ・パウルスがRussellに可能性を感じ、Russellに基礎を叩き込もうと考えた。

このパウルスは白人で、差別ばかり受けていたRussellにとっては白人コーチが自分に指導してくれていることを嬉しく思い、熱心に取り組んだ。この時、後にバスケに革命を起こすRussellのディフェンスの基礎を身に付けていくのだが、高校在学中に才能を開花することなく無名選手として卒業を迎えた。

↑現在のサンフランシスコ大学
だが、高校在学中のとある試合で地元のサンフランシスコ大学のハル・デ・ジュリオがRussellを見た際に「得点力不足で酷い」と感じた一方で、クラッチタイムになると素晴らしい働きを見せることを発見し、奨学金の提供を条件に勧誘した。
2.無名からの開花
サンフランシスコ大学のコーチ フィル・ウールパートはRussellを先発センターに起用。ウールパートはハーフコートディフェンスに重点を置いた試合展開を好み、これがRussellの眠れる才能を最大限に引き出すきっかけとなる。
また、ウールパートは人種差別の考えを全く持たないコーチであり、後にNBAでRussellとチームメイトとなるKC・ジョーンズともう1人の黒人選手にRussellを加えた3人の黒人選手を先発として起用していた。
そしてウールパートがRussellに指導したディフェンスは当時の常識を覆すものだった。
当時のバスケはセンターが得点源であり、常にマークしておくのが常識だったが、Russellの場合は積極的にヘルプディフェンスに飛び出し、自身のマークマンを度々フリーにしていた。長身で得点源であるセンターをフリーにすることは自殺行為だったが、Russellはセンターとしては類を見ない身体能力で相手のシュートをブロックすることで相手に得点させなかった。自身のマークマンを守りながら、チームメイトのヘルプもこなすRussellの脅威的な守備力はカレッジバスケ界に衝撃を与えることとなった。

とある試合では、点取り屋でスター選手だったトム・ヘインソーン(後にNBAでRussellとチームメイトとなる)をマークし無得点に抑え込み、某雑誌には「もしRussellがシュートを覚えればルールを変えざるを得ない」と記載されている。
優秀なディフェンダーだったKC・ジョーンズとRussellの2人がいたサンフランシスコ大学は無敵であり1955年から1956年にかけて55連勝を達成し、連覇を果たした。中でもRussellの守備力は全米に衝撃を与え、大学での成績は平均20.7得点 20.3リバウンドを記録した。
ちなみにRussellは大学時代に陸上選手としても活躍しており、走高跳では世界ランキング7位となっている。
そして大学で衝撃を与えたRussellはNBA入りを決意する。
3.選手生涯を過ごす街 BOSTONへ
知っての通り、Russellは終始BOSTON CELTICSでキャリアを過ごす。
だが、RussellがエントリーしたこのドラフトではBOSの指名権は1巡目とはいえ低いもので、全米が注目する選手であるRussellを指名するには明らかに遅すぎる指名権だった。
しかしここでレッド・アワーバックという偉大な人物が巧妙な手口によりRussellを見事獲得した...のだが、これに関しては後々書くであろう
LeBlog記事『レッド・アワーバック編』をお楽しみに...笑

↑勝利を確信すると葉巻を吸うことで知られていたアワーバック
アワーバックの見事な作戦によりBOSは待望のスター選手を獲得したのだが、開幕戦にRussellの姿は無かった。
メルボルンオリンピックにキャプテンとしてRussellが参加することになったのだ。本来ならNBAと契約している選手がオリンピックに出る事は本来不可能(当時は禁止されていた)なのだが、契約しているとはいえまだNBAでの出場経験も無かった為、無事に許可された。
ちなみにRussellはもし代表チームで納得のいかないような扱いをされることがあれば、走高跳の選手としてオリンピックに出場しようと考えていたらしい。何とも贅沢な選択肢...
大学でチームメイトだったKC・ジョーンズ(ちなみに2巡目指名で彼もBOS加入)も共に出場し、他国との対戦で平均53.5点差をつける圧勝。ラッセルはチームのトップスコアラーとなり、見事金メダルを獲得した。
金メダルを獲得しNBAに戻ってきた彼は1956-1957シーズンの途中で参加。
アワーバックHCはRussellに対戦相手の得点源であるボブ・ペティットをマークするよう命じる。

だがこのルーキーはデビュー戦にして、リーグ有数のスコアラーだったペティット相手に1on1でのディフェンス力とブロックの技術を見せつけた。
4.守備の革命家
実はRussellが加入する前のBOSはPOに出るも優勝には近付けない中堅チームだった。当時のBOSはリーグ1位の得点力を誇っており、得点力に秀でた選手を揃えていた一方で、リーグ最下位の失点を記録しており、攻守のバランスがオフェンスに振り切っていたのだ。

だがRussellの加入とアワーバックの考案した戦術により革命を起こした。
速攻を最大の武器としていたBOSはその速攻を活かす為に、よりアグレッシブなディフェンスを仕掛けることで、相手のミスを誘った。しかしアグレッシブなディフェンスは当然ながら突破されれば一気に崩れるというデメリットがある。
しかし、ここで後ろに待ち構えるのがヘルプディフェンスを得意とするRussellだった。長身に加えガード並みの身体能力で動き回り、ブロックショットを得意としていた彼は、チームメイトの守備の綻びをサポートし、ミスマッチにダブルチームを仕掛け、シュートを放たれてもブロックし、リバウンドを取っていた。
そして後ろにRussellが構えていることでチームメイトはよりアグレッシブなディフェンスが可能となり、結果的に鉄壁の守備が完成したのだ。

堅固な守備から繰り出される速攻という一連の流れはRussellを中心にした戦術はBill Russellの名前から『Hey,Bill !』と名付けられた。これはディフェンスの際にRussellに助けを求めるチームメイトがそう呼ぶことから付いたらしい。
1年目にして平均14.7得点 19.6リバウンドを記録し、平均リバウンドでリーグトップだった(当時のリバウンド王は通算本数で決められており、オリンピックの関係で前半を欠場していたRussellは1位では無かった)。
だがRussellのキャリア1年目は個人記録に反して、決して満足のいくシーズンではなかった。
NYK戦では、黒人選手として初の新人王になった経験を持つレイ・フェリックスから執拗な挑発を受けていた。これに困ったRussellはアワーバックに相談するも自分で解決するよう言われ、再戦した際に同じく挑発されたRussellは殴って黙らせたのだ。しかし当然許されるはずもなく25ドルの罰金を課せられた。
また、Russellはチームメイトからは友好的だと言われているものの、人によっては「彼は冷酷」と評される部分もあり、友好的かつ閉鎖的な難しい人間でもあった。その1つとして同じルーキーにしてチームメイトのトム・ヘインソーンとは良好な関係を築けなかった。さらに新人王はヘインソーンが選ばれたのだ(Russellの評価はヘインソーンより高かったのだが、オリンピック出場により前半を欠場していた為)。これに不満を持ったRussellは、ヘインソーンが新人王の賞金として受け取った300ドルのうち、半分は自分に受け取る権利があると断言。さらにヘインソーンから「いとこの為にサインを書いてくれないか」と頼まれた際も断るなど、険悪な関係だったという。
しかしその一方で、幼い頃から人種差別を受けていたRussellだが、白人のチームメイトであるボブ・クージーとは仲良くなっていた。

↑ボブ・クージー
満足していないRussellに反してBOSは歴代2位となる勝率となり、RSでリーグ首位だった。
ちなみに当時のPOでは第1シードは最初のラウンドは参加しない(いわゆるシード校のような感じ)という方式だった為、ディビジョン決勝からスタート。
シラキュース・ナショナルズとの対戦となり、Russellのマッチアップは後に殿堂入りを果たすドルフ・シェイズだった。
シェイズは当時リーグ有数のビッグマンだったが、RussellはPOデビュー戦にして16点 31リバウンド 7ブロックを記録(ブロックは当時計測されず、公式記録ではない)し圧勝。勢いに乗ったBOSはそのまま3連勝でファイナル進出を決めた。
5.黄金時代の幕開け
ファイナルの相手はRussellのデビュー戦で対決した、ボブ・ペティット率いるセントルイス・ホークスだった。

↑当時のロゴ
お互い譲らず第1戦では2点差で敗北するも、第2戦では20点差で勝利、第3戦では再び2点差で敗北など拮抗し続け、3勝3敗で第7戦を迎えることとなる。
この試合ではBOSのもう1人のルーキー、トム・ヘインソーンが37得点を上げチームを牽引していたが、終盤にRussellが勝負強さを見せつける。

1点ビハインド残り1分、ホークスのスローインの場面。
ホークスはベテラン選手のジャック・コールマンにボールを託し、レイアップを放つ。3Pが無いこの時代において3点ビハインドはかなり追い込まれることとなる。しかしさっきまでベースラインに立っていたはずのRussellが急に現れ見事にブロック。このプレイは『コールマン・プレイ』と呼ばれ、皮肉にもジャック・コールマンの最も有名なプレイとして語り継がれることとなる。

このブロックを決めたRussellはさらに速攻に走り出し見事逆転シュートを沈める。
この後、ペティットが点を取り返しオーバータイムに突入。2OTまで縺れた末に2点差でBOSが勝利した。Russellはこの試合で19得点 32リバウンドに加えて窮地を救うブロックを記録し、優勝の立役者となったのだった。

ルーキーにしてチームに改革を起こし、優勝まで導いた彼だが、当時のBOSにはRussellの他に、後にBOSの永久欠番となる選手が5人在籍しており、この優勝を皮切りにBOSの黄金時代が始まった。
6.最高の選手へ
翌シーズン、オリンピックへ出場した前季と違い開幕戦から出場したRussellは平均16.6点 22.7リバウンドを記録。
平均20リバウンド超えはリーグ初となり、当然のごとくリバウンド王となった。
さらにオールスター初選出(ここからRussellは引退までの12年間選ばれ続ける)、BOSを2年連続でリーグトップの勝率に導いたRussellは2年目にしてMVPを受賞。しかしここで謎めいた事態が起きる。MVPを取ったRussellがオールNBA1stチームに選ばれず、2ndチームに選出されたのだ。1stチームのセンター枠にはドルフ・シェイズが選ばれている。

しかしRussellがBOSをリーグトップに導いた事実に変わりはなく、POでもポール・アリジン率いるフィラデルフィア・ウォリアーズを4勝1敗で撃破し見事2年連続NBAファイナル進出を果たす。
ファイナルでは前年と同じくセントルイス・ホークスと対戦。リーグ史上2回目となる連覇が期待されるBOSは1勝1敗で第3戦を迎える。しかしここで予期せぬ事態が起きた。リバウンド争いの中、着地の際にRussellがペティットの足を踏んでしまい重度の捻挫をしてしまったのだ。
Russell不在を1勝2敗で乗り切ったBOSだがホークスは既に王手を掛けており、優勝するには2連勝する必要があった。そして迎えた第6戦、Russellが足を引きずりながらも復帰。
20分の出場で8点 8リバウンドを記録したRussellだったが、リベンジに燃えるホークスのペティットが歴史的活躍を見せる。

前半で19点を記録していたペティットに対し後半にはBOSも反撃。しかし第4Qにペティットの得点力が炸裂。ダブルチーム、トリプルチームをされようとも点を取り続けるペティットは当時PO新記録となる50得点。歴史に残る活躍を見せたペティットの前にBOSの連覇の夢は潰えた。
ちなみにこのホークスとは現在のアトランタ・ホークスであり、この年の優勝が球団史上唯一の優勝である。

7.伝説の8連覇へ
この章を書く前に1つ。
タイトル通り、この後にBOSは後に50年以上破られていない(今後も破られないであろう)伝説の8連覇を果たす。
ここからはそんな8連覇の様子を見ていこう。
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迎えた翌シーズン、BOSのRussellはファイナルという大舞台でチームをサポート出来なかった悔しさを胸に復帰し、平均16.7点 23.0リバウンドを記録。
MVP受賞を逃したRussellはオールNBA1stチームに選出。チームも当時最高勝利数更新となる52勝20敗を記録した。POではシラキュース・ナショナルズと対決。勝っては負けるという一進一退の攻防の末に第7戦まで縺れながらも勝利。ファイナル進出を果たしたBOSの相手は3年連続でホークスだと誰もが思っていた。
しかしホークスにとって思わぬ敵がファイナルへの道を阻んだ。"空中戦"をNBAに持ち込んだエルジン・ベイラー率いるミネアポリス・レイカーズだった。

ベイラーは新人王を獲得し、リーグ4位の平均得点とリーグ3位の平均リバウンドに加えてオールスター出場とオールNBA1stチーム選出と、既にリーグトップレベルであることを証明していた。さらに低迷していたレイカーズをほぼ独力でリーグ上位に引っ張り上げ、人々の予想を裏切り、前季王者であるホークスを4勝2敗で破ったのだった。
この年がNBA史上最大のライバル関係であるBOSTON CELTICS vs LOS ANGELES LAKERSの初対決である。

しかし、この初対決は決して素晴らしいものではなかった。
強力な新人に導かれて突然ファイナルへやってきた勝率5割以下のレイカーズが、当時最高勝利数を記録したファイナル常連のBOSに勝てるはずは無かった。
ベイラーによるワンマンチームに対しBOSはスウィープ勝利。
前季の悔しさを胸に挑んだRussellの王座奪還は簡単に達成されたのだった。

レイカーズのHCだったジョン・クンドラは「私達はBill(Russell)のいないBOSを恐れない。Billを何処かへやってくれ。そうすれば私達は勝てる」とRussellを讃えた。
そんなRussellの前に最強のライバルが現れるのは翌シーズンのことだった。
8."Battle Of Titan"
1959-1960シーズン、前回成し得なかった連覇を狙うBOSは、当時最長記録となる17連勝を含め59勝16敗という前季記録更新を達成。
しかし、リーグを完全に支配していた守護神Russellに対抗する巨人が現れる。
216cmの長身とRussellにも引けを取らない身体能力を兼ね備え、シーズン平均37.6得点 27.0リバウンドという前代未聞のオフェンス力を発揮。
当然ながらの新人王に加えて、得点王とリバウンド王、シーズンMVPの座を獲得。1年目からほぼ全ての個人賞を獲得したその名は Wilt Chamberlain。

守護神Russellに対し、最強の攻撃力を持つChamberlainという新たな存在は当然リーグ最大のライバル関係として取り沙汰される。
この巨人同士の対決は『The Big Collision(大激突)』『Battle Of Titan(巨人の戦い)』と呼ばれることとなる。

ちなみに初顔合わせとなった11/7の試合ではRussellが22得点、Chamberlainが30得点をあげ、試合自体はBOSが僅差で勝利している。
そんな2人はPOでも対戦。
ディビジョン決勝で対戦するとChamberlainは第1戦でいきなり42得点と大活躍。リバウンドではChamberlainが29本、Russellが30本と対等に渡り合うも、この試合を制したのはBOSだった。
第2戦ではChamberlainの29点に加えポール・アリジンの30点もありウォリアーズが勝利。
そして1勝3敗という絶体絶命で迎えた第5戦。Chamberlainは空前絶後の50点 35リバウンドを獲得(もう1度言うが、彼は新人)。
この試合に何とか勝利するも最終的には第6戦でRussellが勝利している。
脅威の新人を破りファイナルへやってきたBOSの相手は2年ぶりのリベンジマッチとなるホークスだった。チームとしては当時最大のライバルだったホークスとは第7戦まで縺れ込む大接戦。大舞台ほど真価を発揮するRussellは第2戦でファイナル史上最多の40リバウンド、第7戦では22得点 35リバウンドを記録。
最終的にBOSが勝利し、ジョージ・マイカン率いるミネアポリス・レイカーズ以来で、リーグ史上2度目の連覇を果たしたのだった。

9.立ちはだかる新たな壁
1960-1961シーズン、3連覇への挑戦となる。優勝直後のシーズンではモチベーション低下によりRSの成績があまり振るわないことも少なくない。まして連覇後のシーズンでは余計にモチベーション維持は困難だろう。
少しRussellの話を停滞させるが、
直近ではMIAの2連覇達成後のシーズンがリーグ全体で同率5位の勝率で終えている。その前に遡るとシャック&コービーで3連覇を達成した際のLALがリーグ全体で同率2位と、王者とはいえリーグ1位となることは非常に少ない。

そういう意味では、連覇に望んだシーズンで73勝を達成したGSWは本当に尊敬するべきシーズンを送っていただろう。
いくら強力な選手を揃えようとも、2度も優勝を果たしたメンバーでRSの全試合を同じモチベーションではなかなか挑めないものである。
話を戻そう。
そんな3連覇に挑んだRussellはシーズン平均16.9得点 23.9リバウンドを記録し、チームとしては57勝22敗で5年連続リーグトップの成績だった(ちなみにリーグ2位が51勝をあげたホークス)。
POでもドルフ・シェイズ率いるナショナルズを4勝1敗で破り、ファイナル進出。
対戦相手は幾度となくこの舞台で戦ってきたホークスだった。現代のNBAなら同じ対戦相手と戦うということは以前より対策を練られるということになる。3連覇を目指す者と、昨年のリベンジを懸ける者ではモチベーションにも少しは差が出るはずだ。しかし、黄金時代真っ只中のBOSはそんな甘い相手ではなかった。

最初のホーム2試合を34点差、8点差で敗北したホークスは迎えたホームでの第3戦でペティットが31点 24リバウンドの大活躍もあり勝利。しかし、翌戦ではペティットがFG 60%で40点を取るも15点差で敗北。
そして優勝にリーチをかけた状態でホームに戻ったBOSは、Russellがここぞとばかりに30点 38リバウンドと奮闘し勝利。
NBA史上2度目となる3連覇が4勝1敗であっさり達成された。
オフには主力の1人 ビル・シャーマンが引退。サム・ジョーンズが彼に代わりチームを引っ張るようになり、絶大な信頼を得ている大黒柱Russellの元で、スムーズな世代交代が行われた。

↑サム・ジョーンズ
リーグ史上初となる4連覇という偉業への挑戦権を手に入れたBOSだが、この1961-1962シーズンはリーグを騒がせる前代未聞の事態が起こる。
Russellのライバルとして名を馳せるChamberlainが1試合100得点という記録と、シーズン平均50.4点という予想だにしない活躍ぶりを見せたのだ。

チームの戦術により才能を全面的に発揮させていたウォリアーズのChamberlainだったが、それでもMVPを受賞したのは前季に続きRussellだった。シーズン平均18.9点 23.6リバウンドとさほど目新しい記録ではなかったが、そんなRussellが受賞出来た大きな理由が、史上初のシーズン60勝到達だった。一方で毎試合50点をあげるChamberlainが率いたウォリアーズは49勝と11勝もの差があり、個人的な活躍とチームとしての飛躍が比例していなかったのだ。
BOSは当然リーグトップとなり、POではナショナルズとのシリーズを勝ち抜いてきたウォリアーズと対戦。
POでのChamberlainとの顔合わせは2度目であった。

迎えた第1戦、シーズン平均50点のChamberlainを見事33点に抑え、ウォリアーズを89点に抑えたBOSは117点と、28点差で快勝。第2戦ではRussellがFG 4/14の9点 20リバウンドと低調なのに対し、Chamberlainは42点 37リバウンドの活躍。106-113でホームのウォリアーズが勝利した。
以降も勝っては負ける繰り返しが続き、迎えた第7戦。
ちなみにここまでの6試合、驚くことにChamberlainは全試合フル出場である。彼のこのシーズンの平均出場時間は48.5分で、オーバータイムによる計50分を含めシーズンでベンチに下がっていない。1度だけ残り8分時点で2つ目のテクニカルファウルにより退場しているが、退場なので厳密にはベンチに下がっておらず、信じられないことに本当にシーズンを通して試合時間中にベンチに座っていないのだ。
対するRussellもこのファイナルの6試合でベンチに下がったのは2分だけ。
ここからは私の推測だが、この2分は第1戦なので、おそらく勝敗が決していた為に下がったと思われる。
そんな2人がフル出場した第7戦、試合はオーバータイムにまで縺れた。同点のまま迎えた中で、シャーマンに代わりチームの得点源となったジョーンズが見事に決勝弾をヒットさせ勝利。

↑シャーマンに代わる新たな得点源としてBOSを支えたジョーンズ
Chamberlainは22点 22リバウンドと、大舞台でシーズン平均の半分の得点に終わりファイナルへの道を閉ざされた。
6年連続ファイナル進出となったBOSの相手は、3年ぶりの対決となったレイカーズだった。前回はエルジン・ベイラーがほぼ独力で勝ち抜いてきたワンマンチームだったが、この年は違った。
リーグ僅か2年目にしてオールNBA1stチームに選ばれたジェリー・ウエストがいたのだ。

第1戦では14点差で勝利するも、第2戦では逆境に強いウエストに40点をとられ、ホーム戦でまさかの黒星。
ロサンゼルスに舞台を移して迎えた第3戦、今度はベイラーとウエストで75点を取られ連敗。前人未到の4連覇に暗雲が立ち込めた。
1勝2敗でリードされる展開となったBOSだが、アウェイとはいえ流石に3連敗だけは避けたいなかでベイラーに38点を取られながらもなんとか勝利。
2勝2敗のタイで迎えたBOSのホーム戦。ファイナル史に刻まれる記録が生まれた。FG 46本の試投数で22本を沈めた(確率にして47%)ベイラーがファイナル最多記録(未だに破られていない)となる61得点を記録。ハイスコアとなったこのゲームを126-121の5点差で勝利した。大事なホーム戦でまたしても黒星を喫し2勝3敗と追い詰められたBOSだが、第6戦ではサム・ジョーンズが35点とチームを牽引。ウエストとベイラーに68点を許すも他の選手を抑え込み14点差で勝利。
リーグ史上最大のライバルであるレイカーズとの初の"激闘"は第7戦に突入した。
ベイラーとウエストに守備を集中させていたBOSは既にヘインソーン、ロスカトフ、サンダースの主力3選手が退場していた。そんな中 100-100で迎えた4Q終盤。
ベイラーとウエストにマークを集中させるなかで残り5秒のその時、ゴールから僅か2mほどしか離れていない位置でオープンになっていたフランク・セルビィにボールが渡った────
ここで少し時を止め、フランク・セルビィという人物の話をしたい。
今 ボールを持っているセルビィは、チームを転々としてきた選手である。しかし、彼は大記録を1つ保持している。
『1試合100得点』
Chamberlainが持つあの記録である。
彼が達成したのはNBAではなく、カレッジでのことだった。カレッジ界で有名だった彼をオールアメリカン選出(いわゆるMVP)させるべく、シーズン終盤戦で大学のコーチがセルビィにボールを集めるよう指示した。セルビィはFGを41/66と高確率で沈め、FT 18/22を含めた100得点を達成したのだ。

しかも、最後の100点目はハーフラインからのブザービーター。加えて試合中に放ったシュートのうち、少なくとも12本以上が3Pライン(当時は無い為、どこから決めても2点)より後ろだったと言われている。
ドラフトでも1位指名されたが、優勝どころかチームに長く留まることすらままならず、このボールを持った瞬間が最も優勝に近い瞬間だった。
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カレッジ時代に100点目のシュートを狙ってハーフラインからブザーと同時に決めた選手が、ゴールから僅か2mの位置でノーマークで優勝を懸けたシュートを放つ。
セルビィは後でこのシュートをこう振り返る。
『自分の全ての得点をあのシュートと交換したい』
セルビィが以降悔やみ続けるこのミスショットによりBOSはオーバータイムに望みを繋いだ。
しかし、BOSの劣勢は変わらない。
オーバータイムではフランク・ラムジーまでファウルアウトし、普段出番など無いようなジーン・グアリアがベイラーをマークすることとなる。しかし、こんな時でこそ真価を発揮するのがRussellだった。

Russellはベイラーのもとに度々ヘルプディフェンスをしながら自身のマークマンも抑え込み、なおかつ30得点と自身が保有するファイナル記録タイの40リバウンドを記録。
相次ぐ主力離脱の中、107-110で見事BOSを勝利に導いた。
NBA史上前にも後にも唯一の4連覇を成し遂げたこのシーズンは、8連覇の中でも、シリーズ2つともが第7戦までもつれ込んだ最も苦しんだ優勝だった。
※ここからは上記シーズンほど苦しまないので、少し簡潔に進めます(長すぎるうえ優勝が当たり前になりつつあるので)
10.止まらぬ王朝
NBA史上唯一の4連覇を成し遂げたBOSだったが、モチベーションに衰えは無かった。それどころか後に殿堂入りを果たすジョン・ハブリチェックを7位指名で獲得し、層の厚さを増していた。
さらにクライド・ラブレットとウィリー・ナオルスという2人のベテラン獲得も行っていた。ラブレットはジョージ・マイカンの引退直前の優勝時のメンバーであり、ナオルスもオールスター選出経験のあるベテランだった。
BOSは58勝をあげて当然のように7年連続リーグトップとなり、Russellも16.8点 23.6リバウンドで3年連続4回目のMVP受賞。
POではオスカー・ロバートソン率いるシンシナティ・ロイヤルズに苦戦を強いられる。

↑オスカー・ロバートソン(画像はバックス時代)
『Mr.トリプルダブル』の名に恥じぬ活躍を見せるロバートソンを筆頭にBOSに食らいつくロイヤルズは、最終的には敗退したものの、7戦まで縺れこませたうえ、その内2試合がオーバータイムという激戦だった。
ファイナルでは前季に続きレイカーズと対戦するも、盤石なBOSをレイカーズが崩すことは出来ず、4勝2敗で見事5連覇を達成。
オフには黄金時代の司令塔としてチームを支えていたボブ・クージーが引退。Russellと学生時代から苦楽を共にしてきたKC・ジョーンズが代わりに先発へ抜擢される。

Russellもベテランの域に入り、円熟味が増したこともあってか、24.7リバウンドで5年ぶりにリバウンド王に返り咲き、Chamberlainに4年間奪われていた王座奪還を果たした。
殿堂入り選手であるクージーを失ったBOSだったが、59勝をあげて8年連続となるリーグトップを記録。POでも最初のラウンドでは前季と同じくロイヤルズとの対戦だった。

↑この一風変わったロゴがロイヤルズ
だが、前季のリベンジを掲げるロイヤルズを4勝1敗であっさり粉砕。
当然のように辿り着いたファイナルの相手はウォリアーズだった。この年、以前までの本拠地だったフィラデルフィアからサンフランシスコに移転したことで、ウエスタン・ディビジョンに移っていたのである。
こうして"Battle Of Titan"の第3章がファイナルで幕を開ける。
後に殿堂入りするネイト・サーモンドを加え、Chamberlainとサーモンドの強力なフロント陣を擁したウォリアーズだったが、Russellの圧倒的守備力には敵わなかった。

↑ネイト・サーモンド
第1戦でChamberlainとサーモンドを立て続けにブロックする離れ業を見せると、そのまま勢いに乗ったBOSが4勝1敗で完勝。
このシーズンのChamberlainは1試合40〜70点をあげていることが多かったものの、ファイナルでは唯一勝利した第3戦にあげた35点がシリーズハイで、大舞台でギアを上げることが出来ないというイメージが定着しつつあったChamberlainだが、このファイナルもまさにその通りだった。
こうしてNBAどころかアメリカスポーツ史上初となる6連覇を達成したBOSは、翌シーズンでもリーグトップの勝率をキープ。さらに30歳を迎えたRussellはまたしてもMVPを受賞し、5回目の受賞となった。
POではフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦。しかし、このチームにはまたしてもあの男がいた。
シーズン中にシクサーズにChamberlainが移籍していたのである。
過去3度POでRussellに負けているChamberlainがまたしても立ちはだかったのだ。
2年連続4度目となる"Battle Of Titan"は熾烈なものとなった。

1勝1敗で迎えた第3戦では、Russellの堅固な守備により第3QまでChamberlainをFG僅か2本に抑え込む。さらに第5戦でRussellは12点 28リバウンド 7アシスト 10ブロック 6スティールと大活躍。
激闘の末第7戦まで縺れ込むが、ここでChamberlainも負けじと30点 30リバウンド FGは驚異の80%を記録。対するRussellも16点 27リバウンド 8アシストを記録していた。
2人の巨人による激闘が続いたこのシリーズだが、シリーズを決めるのは巨人達ではなかった。しかし、迎えた110-109でBOS1点リードのBOSのスローイン。ここでRussellが痛恨のミスを犯し、シクサーズにポジションが渡る。
しかし、ここでBOSのハブリチェックがシクサーズのスローインをスティール。
https://youtu.be/J4fTjcJwImw
実際の映像がありました
『ハブリチェックがボールを奪った!試合終了!ジョン・ハブリチェックがボールをスティールしました!(Havlicek stole the ball! It's all over! Johnny Havlicek stole the ball!)』
この劇的なハブリチェックのスティールで勝利を収めたBOSはファイナル進出。
4度目となる対決となったベイラー&ウエスト率いるレイカーズ戦だったが、4勝1敗で危なげなく勝利。
7連覇となった。
11.終焉の兆し
オフに守備職人のジム・ロスカトフと、Russellと同期のトム・ヘインソーンが引退し、ついにBOSの初優勝から在籍する選手はRussellのみとなった。

↑トム・ヘインソーン
先発に定着したハブリチェックと、チームトップのスコアラーであるサム・ジョーンズも奮闘したが、54勝でシーズンを終えたBOSは10年ぶりにリーグトップの座から陥落し2位へ。
代わりにリーグトップとなったのはChamberlain率いるシクサーズだった。

第1シードのチームはPOの第1ラウンドを免除となるのだが、この年のBOSは10年ぶりにディビジョン準決勝からスタートした。
相手はロバートソン率いるロイヤルズだったが、後に殿堂入りを果たすジェリー・ルーカスを加えていた。3戦先勝となるディビジョン準決勝でBOSはまさかの1勝2敗とリーチをかけられる。かし見事巻き返したBOSが2連勝を飾り、シリーズ勝利。
迎えたディビジョン決勝では3年連続の巨人の決闘が始まった。
初めてホームコートアドバンテージを保持した状態でRussellと対決したChamberlainだったが、最初の2戦で25点 23点と振るわず、FGも40%を切っていた。またしても大舞台で本来の力を発揮出来ないChamberlainに批判が相次ぐ中、第3戦ではChamberlainが31点 27リバウンドとチームを牽引し勝利。
しかし第4戦では僅か15点に終わりあっさり敗北。崖っぷちのChamberlainは第5戦ではホームで46点 34リバウンドと奮闘するも8点差で敗戦。
RSの成績でBOSを上回り、MVPも受賞していたChamberlainが今度こそRussellの壁を打ち破るのではと予想されたが、1勝4敗と結果的には『敗者』という周囲の声を黙らせることは出来なかった。
10年連続となったファイナルでは前季に続きレイカーズと対戦。
初戦からオーバータイムに入り、ベイラー&ウエストに77点を取られ、BOSはまさかのホーム初戦敗北。
その試合終了後、BOSは敗北よりも重い事実を知らされる。
試合終了後のコメントで黄金時代を支え続けたアワーバックHCがシーズン終了後に引退することを発表したのだ。

さらに後任にはRussellを指名したのである。
引退の理由としては、GM(これまではHCとGMを兼任)の仕事に専念する為との事だったが、この発表は同時に、Russellが選手兼監督となるということ、そして何よりアメリカプロスポーツ史上初の黒人HCとなるという事だった。
このタイミングでの発表が意図的だったのかは定かでは無いが、初戦の敗北から見事立ち直ったBOSはここから怒涛の3連勝。
しかし、レイカーズ側もこのBOSとの対戦は5回目で、そう簡単に負けるわけにはいかなかった。
ベイラー&ウエストが再び奮起し2連勝。シリーズは第7戦へ突入した。
Russellは足を骨折したままプレイを強行し25点 32リバウンドと活躍。

一方でベイラーはまさかの不調に陥りFG 27%で18点に終わる。
2点差で試合を制したBOSの驚愕の8連覇は、アメリカプロスポーツの歴史で未だに破られていない記録であり、ボストン王朝として名を刻んだ。

突然のアワーバック引退劇によりHCを引き受けたRussellだったが、周囲からは不安の声が多かった。
『黒人にHCが出来るのか』
そんな疑問が寄せられるRussellは『私は黒人であることを理由にHCという職を与えられたのではない。レッド(アワーバック)が私に出来ると考えたから与えられたのだ』と疑問を一掃。
そんなRussellの指揮のもと迎えた翌シーズン、60勝をあげていた。アワーバックがHC兼GMからGMのみに専念したことで、ボルティモア・ブラッツで埋もれていた有能選手のベイリー・ハウエルを獲得。
アワーバックの補強は見事成功し、ハウエルの援護はRussellのオフェンスの負担軽減に大きく貢献した。これにより得点こそ自己最低の13.3点となったが、リバウンドでは21.0本としっかり成績を残していた。HC交代劇の影響を感じさせない"いつも通りの成績"を残したBOSだが、この年BOSよりも遥かに好成績を残したチームがいた。
Chamberlainが在籍するシクサーズだ。

オフにアレックス・ハナムという後に殿堂入りを果たすHCが、シクサーズに改革を起こしたのだ。これまでのシクサーズのChamberlainに偏ったオフェンスをチーム全体に分散させオフェンス効率を格段に向上させたことにより、アンストッパブルなチームへ変えた。
そんなChamberlainは器用さも持ち合わせており、このシーズンのChamberlainはボールを裁くよう指示されていたことでアシストを量産。シーズン平均7.8アシストと一流ガードのような数字を残している。
そんなChamberlainのプレイスタイルの変化もあり、シクサーズは歴代最高勝利数となる68勝をあげていた。
またしてもトップシードとはならなかったBOSだが、1回戦でウィリス・リード率いるニックスを3勝1敗で下し無事突破。次なる相手はシクサーズだった。
9連覇を目指すBOSにまさかの事態が起こる。
第1戦、Chamberlainはなんと24点 32リバウンド 13アシスト 12ブロックのクアドラプル・ダブルを達成し127-112でBOSが惨敗。ホームで巻き返しを狙うBOSだが第2戦も5点差で敗北。さらに第3戦もChamberlainに41リバウンドを許し11点差で敗北。
崖っぷちのBOSは第4戦でハブリチェックとジョーンズが爆発し2人で63点を稼ぎ何とか勝利。

しかしホームに帰ってきたシクサーズはChamberlainが29点 36リバウンド 13アシストとハイレベルなトリプルダブルを達成。
Chamberlainにとっては、6回目の挑戦でようやくRussellの壁を破ったのだった。
そしてRussellにとってはキャリア11年目にして初めてファイナルに辿り着かなかったシーズンであり、8年間続いたBOS独壇場の王座がようやく空いた瞬間だった。
第5戦終了後、シクサーズのロッカールームを訪れたRussellはライバルでありながら親友だってChamberlainの手を取り『Great !』とただ一言で祝福を述べたという。
ちなみこの年、Chamberlainはキャリア初の優勝を果たしている。

Chamberlainを祝福したRussellはBOS側のロッカールームに戻った。
ロッカールームではハブリチェックとジョーンズが隣同士でシャワーを浴びながら試合について対等に議論していた。
そこに観戦に来ていたRussellの祖父が訪れた。
Russellの祖父はハブリチェックとジョーンズが目に入った瞬間、その場で泣き崩れた。
『何かあったのか?』と尋ねるRussellに祖父はこう答える。
『お前が"黒人と白人が調和する組織のコーチ"であることをどれだけ誇りに思うか』と。
当時のアメリカではシャワールームやトイレが黒人/白人で分けられていることがほとんどだった。同じシャワールームを使うどころか、隣同士でシャワーを浴びながら黒人と白人が同じ立場で議論していることがRussellの祖父には有り得ない光景だったのだ。
12.崩れぬ王朝
ついに優勝を逃したBOSだったが、60勝をあげていた彼らが翌シーズンの優勝候補から外れるわけはなかった。
チームの大黒柱として、HCとして王座奪還を狙うRussellはシーズン平均12.5点 18.6リバウンド(平均が20本を下回るのはルーキーイヤー以来)となり、平均出場時間も久々に40分以下となったRussellは33歳という年齢を考慮し、明らかにPOへ照準を当てていた。
BOSも54勝と前季から成績を下げたもののシクサーズに次ぐディビジョン2位をキープした。
そしてPOではピストンズを破り、リベンジマッチとなるシクサーズと対戦。
しかし、ここで予期せぬ大事件が起こる。
1968年 4月4日。
ピンとくる人もいるだろう。
キング牧師の暗殺事件である。

この事件を受け、両チーム先発10人のうち8人から「試合を辞退したい」との声が挙がったが、試合は続行。
『感情を欠いたような試合』と言われた第1戦はBOSが勝利。しかしここからシクサーズが息を吹き返し怒涛の3連勝。
周囲はBOSのシリーズ敗退を確信していた。これまでの歴史で1勝3敗からの逆転勝利は無かったのだ。
しかし、今度はBOSが息を吹き返す。
ハブリチェックがトリプルダブル級の活躍を果たすことで2連勝。シリーズは第7戦にもつれた。
シクサーズホームで行われたこの第7戦では大舞台を得意とするRussellがギアアップ。
Chamberlainを後半FG成功僅か2本に抑えると、残り34秒の場面で2点リードに広げるフリースローに成功。さらにその後のシクサーズのオフェンスでシュートブロック。ORを取られるものの、運良く外れたシュートをリバウンドし、そのまま速攻を狙うジョーンズへアシスト。4点差に広げ見事勝利した。
BOSが2年ぶりにファイナルの舞台に帰ってきたのだった。
だが、西でファイナル進出を決めていたレイカーズはこれこそ望む展開だった。

↑ちなみに当時のレイカーズのロゴは色がイマイチだった
レイカーズが恐れていたのは62勝をあげていた前季王者のシクサーズだった。BOSはもはや倒せない敵では無いと考えていたのだ。
しかし油断しているベイラー&ウエストに悲劇が襲い掛かる。
レイカーズはBOSから2勝あげることは出来たが、優勝経験豊富なBOSには敵わなかった。
4勝2敗でレイカーズを下し、BOSは見事王座奪還を果たした。
Russell自身はキャリア12人目にして10個目のリング獲得。さらに黒人HCとして初の優勝を果たした。
この年、スポーツ・イラストレイテッドのスポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞。ファイナルでまたしても敗北したウエストは『もし私がリーグの選手から1人を選ぶなら、私の選択はRussellで無ければならない。Russellは我々を驚かすことを止めようとしない』と賞賛を送った。

13."Last Battle"
1968-1969シーズン、Russellはついに34歳を迎え、コンディション管理もままならない状態となっていた。以前より6.8kgも増量していたRussellは、ケネディ暗殺事件やベトナム戦争の激化など、不安定な状態のアメリカにも幻滅し、妻との関係も悪化するなど、心身共に疲弊していた。

あるRSの試合後には激しい身体の痛みを訴え、急性疲労と診断される。
痛みと疲労の中で出場し続けるRussellだが、平均9.9得点 19.3リバウンドとキャリア初の10点未満になり、BOSもRussell加入以降最低の48勝を記録。
前季王者はまさかの第4シードでPOに参加することとなった。
ついに黄金時代の終焉を感じさせるBOSの相手はシクサーズ。前季で激闘の末敗れただけに、シクサーズにとっては絶好のリベンジチャンスだった。
だが、彼らには肝心のあの選手がいなかった。この年のシクサーズにChamberlainの姿は無かったのだ。
前季終了後にChamberlainがトレード要求し他チームへ移籍していた。要求の理由としては定かではないがオーナーとの間でいざこざがあった為と言われている。
Chamberlainが離脱したシクサーズに対し、BOSはPOという舞台で本来の姿を取り戻していた。
Chamberlain無くしてRussellと対等に張り合えるはずもなく、第4戦こそ一矢報いたものの、BOSが4勝1敗で勝利。
続くニックスとのディビジョン決勝も4勝2敗で制し、ファイナルに到達。
ファイナルの相手はまたしてもレイカーズだった。

この年のレイカーズは55勝をあげており、レイカーズにとって初のホームコートアドバンテージを保有した上でBOSに挑む機会となった。
POに入りパフォーマンスこそ上げてきたものの衰えを隠せないRussellに加え、レイカーズ側がホームコートアドバンテージを保有。さらにレイカーズにとってプラス要素はもう1つあった。
オフにシクサーズを去ったChamberlainはレイカーズに加入し、ベイラー&ウエストと共にBIG 3を形成していたのだ。

こうしてBOS vs LALの構図は同時に"Battle Of Titan"でもあった。
選手兼HCのRussellは、最初の2試合でウエストにダブルチームをしないよう指示。しかしこれが仇となり、第1戦 第2戦で53点 41点と猛攻を食らい2連敗。
ウエストへのダブルチームを行い、ようやく第3戦に勝利。
迎えた第4戦、残り7秒BOSが1点ビハインドでレイカーズのポゼッションでスタート。しかしベイラーがボールをこぼしてしまい、BOSのスローインでスタート。BOSはRussellが考案したジョーンズに3重のスクリーンを仕掛けてシュートを打たせるセットプレーを展開。

↑(さっきも使った写真で申し訳ない、昔の選手は良い写真が少なくて...)
これをブザーと同時にジョーンズはヒットさせ劇的勝利。シリーズをタイに戻した。
その後レイカーズは第5戦に勝利しリーチをかけるも、BOSも意地を見せ第6戦勝利。
シリーズの決着はレイカーズホームでの第7戦に委ねられた。
しかしレイカーズは火に油を注ぐ事態を起こす。
レイカーズ球団オーナーの指示により、レイカーズのホームアリーナはまるで優勝したかのような装飾が施されていたのである。

↑当時のアリーナ
これがBOSの選手達を奮い立たせるハメになってしまい(ちなみに、この優勝前提の装飾にはウエストも腹を立てていたらしい)、第3Q終了時点でBOSが12点差をつけていた。
当時のリーグの基準ではこの点差から逆転は厳しいものだった。だが、それほどレイカーズも甘くは無かった。
第4戦で足を痛めていたウエストだが、逆境に強い彼はここから怒涛の反撃を開始。
残り3分には3点差にまで追いついたが、この逆転を予感させるタイミングでアクシデントが起こる。
リバウンド争いの中でChamberlainが着地時に足を挫いたのだ。ベンチに下がったChamberlainをよそに試合は2点差でBOSが勝利。41点 13リバウンド 12アシストと大活躍のウエストだったが、勝利には至らなかった。

ちなみにこの年からファイナルMVPという賞が誕生。優勝したのはBOSだが、記念すべき初代ファイナルMVPはウエストだった。現在までの受賞者で、敗北したチームから選ばれたのはウエストのみである。
この日21リバウンドの活躍を見せたRussellは、試合後に取り乱していたウエストに近寄り、ファイナルMVPとなった彼を宥めたという。
Russellにとってこの優勝はキャリア13年目にして11度目の優勝だった。
そしてこれがRussellにとって最後の優勝であり、最後の試合だった。
Russellは引退を発表したのだ。
しかし、優勝と共に去る彼のキャリアは美しい終焉とはならなかった。
14.引退と王朝の崩壊
1969年ファイナル第7戦終了後、ある議論が巻き起こった。
ほぼ全ての試合でフル出場していたChamberlainがこの試合では4Qに6分しかプレイしていなかった。足首の捻挫によりベンチに下がったのだから仕方ないように思えるが、Russellは怪我がそれほど重傷には見えなかった。
『仮病だった。彼は逃げ出した』
公の場でRussellはそう言い放った。
NBA史上最大のライバルでありながら、プライベートでは親友だった2人の関係はこれをきっかけに犬猿の仲に。
以降、2人が直接話すことは無くなった。

また、Russellの引退宣言はあまりにも唐突で、一方的なものだった。
『ボストン市民には何の恩も無い』と優勝凱旋パレードにすら参加せず、BOS関係者とも関係を断ち、ボストンの街は混乱した。
ファンに向けてのコメントを一切発表しなかったRussellだが、スポーツ・イラストレイテッドから1万ドルを受け取ってインタビューに応じると、ボストンの記者やファンは裏切りとすら感じるようになる。
Russellと共に黄金時代を築いたアワーバックすら引退は知らされておらず、これがアワーバックのチーム経営に失敗をもたらした。
アワーバックはドラフトで9位指名でジョジョ・ホワイトという選手を獲得。

ご存知の方もいる通り、彼は後に殿堂入りを果たす名選手(逆に9位指名で殿堂入り選手を指名するアワーバックも流石)だが、Russellが去るのであれば間違いなくセンターを補強しているはずだった。
Russellの離脱はチームにとって先発センター&HCを失うことを意味し、翌シーズンには34勝という沈み具合でPO進出すら叶わなかった。
だが、Russellは誰にも引退することを伝えていなかったもののBOSの選手達は以前から勘づいており、それがチームを団結させ、優勝出来た要因の1つだとサム・ジョーンズは語っている。
BOSで最後の3シーズンはHCも兼任していたRussellは2度の優勝を果たしており、コーチとしてはかなり優秀な成績だった。だが、1973年から指揮したシアトル・スーパーソニックスでは球団史上初のPO出場を実現させたが、それ以降成績は伸びず、POを逃してしまった1977年に解雇。その後指揮したサクラメント・キングスでも成績は振るわず、1シーズンで終えている。

如何だっただろうか?
選手として非常に稀な成功を収め、個人記録やチーム全体の成績を見れば順風満帆なキャリアだったと思える一方で、数字以外の面を見ると意外と冷酷な一面も見えてくる。
ではもう少し掘り下げてBill Russellという人物を見てみよう。
選手としてのRussell
Russellの守備は当時のリーグの概念からかけ離れたものだった。当時のセンターとは得点源である一方、守備力が評価されるセンターなどほとんど存在しなかった。まして1on1の守備で評価されるならともかく、マークすべきセンターをフリーにしてダブルチームを仕掛けるなど、奇策としか言いようが無かった。
長身とガード級の身体能力を兼ね備えていたからこそのスタイルだった。
さらにRussellの守備の評価が高い理由はやはりブロックだろう。

Russellのブロックは味方へのパスを兼ねていることも少なくなく、ブロックする際に味方のいる方向に意識してボールを叩いていた。元々速攻を得意としていたBOSの選手達にブロックしながらパスが出せれば当然素早い速攻に繋がる。
彼のブロックを『芸術の域だ』と評価する専門家もいるほど、Russellの守備力は高かった。
また、Russellは先述の文章からも読み取れるように、クラッチタイムや重要な一戦で本領発揮出来る勝負強さを兼ね備えていた。Russellが在籍していた間のBOSはシリーズ最終戦に縺れ込むことが11回あったが、この11戦全てで勝利し、シリーズ勝利を果たしている。またこの11試合の平均スタッツは18.0点 29.4リバウンドと、キャリア平均の15.1点 22.5リバウンドから明らかにギアアップしている。
また、PO全体的にもRSと比べてスタッツを伸ばしており、大舞台になればなるほど成績を伸ばせるのであった。
だが、そんな彼だがプレッシャーは人一倍感じていたらしい。試合前に嘔吐することが度々あり、チームメイト達はRussellが吐かないと逆に心配していたほどだと言われている。
なのに何故活躍できるのだろうか...
Russellという人物
究極のチームプレイヤーと称されることもあるRussellだが、社交的な人物というわけではなかった。
チームメイトや友人らには社交的な一方で、記者やファンには冷たいことで有名で、サインを求められても応じることは無く、記者に対しても不機嫌な態度を見せることが多かった。
とある専門家から『最も利己的で無愛想で非協力的なスポーツ選手』と批判されたこともある。
また、アスリートとしては重要なのだが、極端な負けず嫌いであり、Chamberlainが1965年にリーグ初の10万ドル契約を結んだ際、すぐにアワーバックのもとに行き10万1ドルの契約を要求している(ちなみにアワーバックは要求に応えた)。
だがRussellのこういった一面にはアメリカの時代背景が少なからず関係している。
幼い頃から両親が人種差別的な言動を受けているシーンを見続け、自身もNBAでスターとなって以降も受け続けていた。

ホテルや飲食店へ入ることを拒否された経験もあり、Russellは人種差別に対して異常に敏感になった。被害妄想とも言えるRussellの異常なまでの差別に対する嫌悪は、ファンからの賞賛の言葉すらも受け止めることが出来なくなっていた。「偽善的な賞賛ではないか」「白人は皆 黒人を避けている」と思い込むようにまでなり、自分を否定し続ける世界に対し、世界に対し恩など感じないという気持ちを抱く。
「ボストンに借りなど無い。子供に微笑んだり親切する必要も無い」と発言したRussellに対し、ボストンファンと記者が激怒。この発言が一部のボストンファンを暴走させ、Russellの家に侵入し荒らすという事件があった。Russellはこの事件すらも『人種差別のフリーマーケット』と称し、ボストン記者に対しても「反黒人主義者」「人種差別主義者」と呼ぶようになり、これに対してある記者は「Russellこそ差別主義者だ」と反論した。

メディアやファンから嫌われていたRussellは過去のキャリアからは考えられないような隠遁生活を送っていた。
引退後長年に渡ってボストンの地に降り立つことは無く、1972年にRussellの永久欠番となった時も1975年の殿堂入り式典の際もRussellが姿を見せることは無かった。
Russellがようやくボストンの地に立ったのは1990年代。徐々に和解の方向に向いてきており、Russellは何度かボストンを訪問。1999年には長年使わていたボストン・ガーデンからTDガーデンへ移転する為、再び永久欠番式典を行おうという動きが強まった。

満員の観客に囲まれ約30年の時を経て新しいホームコートに立ったRussellには長時間に渡るスタンディング・オベーションが送られ、6番のバーナーが新アリーナに掲げられた。
この式典にはBOS伝説の1人 ラリー・バードや、カリーム・アブドゥル・ジャバーらが出席していた。

そしてこの式典の場にもう1人の偉人がいた。
Wilt Chamberlainである。
Chamberlainとの関係
リーグ内では"Battle Of Titan"と呼ばれ、熾烈なライバル関係を築いていたものの、私生活では親友で、感謝祭にRussellがChamberlainのもとを訪れるのが恒例だった。
Russell自身は2人がライバル関係とされることを嫌っており、2人でいる時はバスケットの話は一切しなかったという。だが先述の通り、ラストバトルとなった1969年ファイナル第7戦終了後のRussellのコメントをきっかけに関係は一気に崩壊。20年以上経過しRussellが公式に謝罪するまで、2人の関係が修復されることは無かった。

修復された後は良好関係が続いており、Chamberlainが急死した際2番目に知らされたのがRussellだったらしい。
Russellの業績
2009年オールスターの際にある発表があった。
NBAはRussellの11回の優勝という偉業を讃え、Russell自身は1度も受賞しなかったファイナルMVP賞を『Bill Russell NBAファイナルMVP賞』と改名すると発表したのだ。

もし初期の頃から同賞が存在していたなら、この賞も多数受賞していたことだろう。
最後に記録面で特に注目すべきものをいくつかピックアップし、紹介しよう。
キャリア平均スタッツ
平均15.1得点
平均22.5リバウンド
(Chamberlainに次ぐ歴代2位)
平均4.3アシスト
平均出場時間 42.3分
(Chamberlainに次ぐ歴代2位)
FG 44.0% FT 56.1%
PO平均スタッツ
平均16.2得点
平均24.9リバウンド(歴代1位)
平均4.7アシスト
平均出場時間 45.4分
(Chamberlainに次ぐ歴代2位)
その他
リバウンド王 4回
史上2位となる1試合51リバウンド
(1位はChamberlainの55リバウンド)
1957年のウォリアーズ戦で前半だけで32リバウンド(歴代1位)
ファイナル歴代最多記録となる1試合40リバウンドを2度達成
1959年ファイナルのシリーズ平均29.5リバウンドはファイナル最多記録
シーズンMVP 5回
(1位はジャバーの6回)

記録を見ただけでも如何にRussellが現実味の無い選手か分かるだろう。
もちろん、当時のNBAはショットクロック導入以降試合展開が早まってきており、リーグ全体的なリバウンド本数が増えていたことも、RussellやChamberlainの超人的記録達成の手助けをしていることは間違いない。だがそれを差し引いても余るほど栄光のキャリアを送っている。
だが、Russellを語る上で11度の優勝に匹敵するほど評価すべき事項がもう1つある。
人種差別の考え方が蔓延していたNBAにとって、Russellは初の黒人スター選手であり、他チームが黒人選手を獲得し始めきっかけとなっている。さらにアメリカ4大スポーツ史上初の黒人HCとなり、スポーツ界における黒人達の立場を向上させたのは紛れもなくRussellだった。

Russellは現代で活躍出来るか?という愚問があったとしよう。
恐らくそれは不可能だ。
身体能力が高いセンターとはいえ、当時と現代では平均身長にも差があり、206cmのRussellが身体能力が高いことなど現代ではそれほど注目されない。
グリフィンやレブロンの方が、遥かに速く・強く・高く動ける。
だが、過去と現在を比べることはスポーツ界(特に進化を続けるバスケットボール)において無意味だろう。
ジョーダンらの時代と現代でさえ、大きな差が生まれる。ヴィンス・カーターやノビツキーやジノビリが今日も活躍しているのは、アスリート達のコンディション管理等が昔と比べ格段に徹底されているからである。Russellが34歳で引退を余儀なくされたのも、そういった点が関係している。
だが、当時のリーグにとって超新星であり、特に守備に関する常識に革命をもたらしたのは事実だ。
彼ら無くして現在のNBAが無いことを私達は理解しておかなければならない。

さて、そんなこんなで終わったんですが、なんと今24560文字。
通算得点なら歴代26位のユーイング(24815)に迫る数字だ。
ここまで読んでくださった方には本当に感謝します。
ありがとうございます。
そして、読破おめでとうございます(・ω・)
この8連覇列伝は今後もアワーバック等の他の人物にフォーカスした視点から記事を書こうかと思っていますので、是非。
ということでまたいつか。byレブ郎
