読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

LeBlog

レブ郎が自由に書くブログです。

2003 NBA Draft

2003年6月26日 PM7:30

マディソンスクエアガーデンには夢の舞台に立つ機会を得た若者達が集まっていた。

今のNBAの顔ぶれと照らし合わせても錚々たるメンバーが集まっている03年ドラフト。

今回はその03年ドラフト組の中から私が独断と偏見でピックアップした選手達を指名順に紹介していこう。

 

1. LeBron James

f:id:LBJ1107ryo:20170429181904j:image

高卒でNBA入りして以降、進化し続ける現役最強のバスケットボールプレイヤー。

これ以上は不要だと思うので、紹介文は省略。

 

 

2.Darko Milicic

f:id:LBJ1107ryo:20170429184351j:image

最近NBAファンとなった方はご存知無いかもしれない。ある意味有名である意味マイナーな選手だからである。

ミリチッチは03年ドラフトでレブロンの次、つまり2位で指名されDETに入団。その年、1年目にして優勝を経験している選手である。

が、この優勝はミリチッチの貢献によるものではない。当時のDETは既にリーグ屈指の強豪で、前年ではカンファレンス決勝まで駒を進めている。好成績ながらトレードで高順位の指名権を獲得し、ミリチッチを2位指名したのだ。2位指名されたものの、層の厚いDETでは即戦力とする必要は無く、出場機会はほとんど与えられなかった。

その影響もあり当時の愛称は『The Human Victory Cigar』。

訳すと『彼が出場する時には観客は勝利のタバコを吸っている』。

つまりガベッジタイムでしか出られなかったのだ。

その事もあってか、1年目で優勝した際にラシード・ウォーレスの案でチーム関係者全員に配られたチャンピオンベルトをミリチッチは「自分は何も貢献していない」と返上している。

その後、DET→ORL→MENと移籍を続け、

2012年にはMENからNYK→MIN→BOSと移籍を繰り返した後にBOSから解雇。ここで彼のNBAキャリアは幕を閉じる。

そして約2年後、突然ミリチッチの名が話題になる。

母国のセルビアでプロのキックボクサーとして第2のキャリアを歩み始めたのだ。

 その約2年後、結局キックボクサーを引退して、土地を買って農家としてフルーツなどの栽培を行い始め現在に至る。

 

結局NBAでのキャリアは、

平均6点 4.2リバウンド と何とも2位指名にしては寂しいスタッツで終えてしまった。

ドラフト前には「ウィルト・チェンバレン並のスキルを持っている」と称されたミリチッチだったが、DETに指名されたのが彼にとっては不運だったのかもしれない。

 

3.Carmelo Anthony

f:id:LBJ1107ryo:20170429191646j:image

今では低迷しているNYKでポルジンギスと共に奮闘しているメロだが、03年組屈指のスコアラーであり、全盛期の破壊力はリーグトップクラスだった。

デビュー6試合目に30得点(当時 史上2番目に若い30点を記録した選手だった)、史上4人目となる月間新人賞の独占(ちなみにイーストではレブロンが独占)、週間MVPにも2度選出されるなど1年目から大活躍。平均得点はルーキー1位の21.0点を記録し、チーム成績も前年の17勝から43勝まで引き上げ、9年ぶりにPO進出。新人王こそ僅差でレブロンに譲ったものの『メロの方が相応しい』という声は少なくなかった。

1on1のスキルに関しては特に評価が高く、中でもジャブステップからのジャンプシュートはかなり高速な上にブレが無く、止めることは非常に困難である。

 

4.Chris Bosh

f:id:LBJ1107ryo:20170429193348j:image

MIA時代しか知らない方には衝撃的な写真かもしれませんが、TOR時代はチームの中心としてドレッドヘアでチームを引っ張っていたんですよ...(・ω・)

 

指名された当時のTORはあのヴィンス・カーターが所属していたものの、カーター自身がエースでありながらトレードを希望するほどチーム状況は悪く、ボッシュにかかる期待は大きかった。チームの都合上1年目は本来のPFではなくCとしてプレイし、平均11.5点 7.4リバウンドを記録。以降カーターが去ったチームを引っ張り続けるもチームは伸び悩み、MIAへ移籍している。

MIA加入以降はレブロンとウェイドの影に隠れていたが、2人が欠場した試合では30点を記録するなど、個人能力もかなり高い。またMIA時代のPOに故障でボッシュが離脱した際にはチームも急激にリズムが悪くなりオフェンスが停滞する場面が増えるなど、スタッツだけではない貢献度の高さを証明している。

ちなみにオールスター投票前にはファンに向けて自身に投票するように呼び掛ける動画をアップするなど、ユーモアセンスもある。

f:id:LBJ1107ryo:20170429194759j:image

 

5.Dwyane Wade

f:id:LBJ1107ryo:20170429195248j:image

"Flash"の名で知られる03年組屈指のスーパースター。指名されたMIAで大黒柱として長く活躍していたものの、契約交渉の問題で現在は地元であるCHIに在籍している。

SGながら192cmとやや低めだが、SGとは思えない強靭な体と変幻自在なクロスオーバーでゴールにアタックすることを得意とし、アウトサイドが苦手でありながら06年ファイナルでは平均34.6点を記録している。昔から膝に爆弾を抱えており、一般的な選手よりも選手生命は短いと言われている。

ちなみに有名な話だが、自分より早く指名されたミリチッチへの皮肉を込めて、オフにホテルの予約をとる際にはミリチッチの名前を使用している。

 

6.Chris Kaman

f:id:LBJ1107ryo:20170429200202j:image

あまり03年組のイメージは無いかもしれないが、実はウェイドの次に指名されている。当時低迷していたLACに入団し、ルーキーながらフル出場を果たしその内61試合が先発出場、平均22.5分と十分に存在感を示した。その後も2年目3年目と成績を伸ばし、 守備型の7フッターとして活躍を続けた。

ブロックやリバウンドを得意としていた彼だが徐々に得点力も向上、左右両手でシュートを放てるという器用さに加え、FT%もキャリアで74%とセンターにしては悪くない数字である。

キャリアで唯一オールスターに選ばれた09-10シーズンには34.3分の出場時間で18.5点 9.3リバウンド を記録している。

 

7.Kirk Hinrich

f:id:LBJ1107ryo:20170508002140j:image

大学時代はSGをしていただけありNBAでもコンボガードとして活躍している。

『キャプテン・カーク』という愛称の通り、チームリーダーとして司令塔を担うことが多い。

指名されたCHIで1年目にして平均35分の出場時間を貰い、12.0点 6.8アシストを記録。 メロ、ウェイド、ボッシュレブロンと並んでオールルーキー1stチームに選ばれている。また06-07シーズンにはオールディフェンス2ndにも選出されており、守備に対する評価も高い。

 

 

 

 

ここで、急に指名順位が7位から18位までとびますが、お気になさらずに(ピートルスやコリソンなど個性的な良いメンバーがいるものの、紹介し出すとキリがないんです)。

 

18.David West

f:id:LBJ1107ryo:20170508004621j:image

全盛期には地味ながらリーグ屈指のPFとして活躍した03年組の1人。屈強な体を駆使したポストプレイ専門かと思いきや、ハンドリング能力も高い上に正確なジャンパーも兼ね備えている。

実はオールスターにも2度選出された実力者だが、長く在籍したNOHとINDで1度も優勝できず、一昨季には優勝を求めてSASに在籍。そしてSASの選手としてGSWにPOで負けたのち、GSWに移籍している。

ところで上の写真、なぜウエストだけ2枚並べたか分かりますか?分からなかった方はまだまだ甘いですね(´・∀・`)

レブ郎トリックに掛かってしまっています。

左の選手、本当にウエストですか?

(多分ほとんどの方はすぐに気付いたと思いますが...)

 

21.Boris Diaw

f:id:LBJ1107ryo:20170508010110j:image

恐らく彼ほどポジションレスな選手は現在のNBAにはレブロン以外にいないのではないだろうか?バスケIQが非常に高く、チームに必要なものを見出しては確実にこなせる実力を持ち、移籍を繰り返しながらも行く先々で20分〜35分の出場時間を確保する『とにかく使いやすい選手』。しかし写真の通り、自分の体重管理(というよりコンディション管理自体)が苦手で、SAS在籍時にはチームから体重を一定以下に保ち続けることを条件に成功報酬を提示されていたほどである。

そんな彼だが、05-06シーズンにはPHXでPGをしていたナッシュが故障離脱するとディアウが代わりにPGも務めアシストを量産。結局その年のMIPを受賞するなど、とにかく様々な代役になれる選手である。

ちなみにフランス人であるディアウの母親もバスケ選手で、フランス最高のセンターと言われている。

 

27.Kendrick Perkis

 f:id:LBJ1107ryo:20170508211800j:image

03年組の中で最も『Shaqtin' A fool』に登場しているであろう有名人。しかし、彼はただマヌケな選手というわけではない。高校最終年には平均27.5点 16.4リバウンド 7.8ブロックを記録し『ベビー・シャック』とまで呼ばれていたほどの選手である。

しかしNBA入り1年目は平均3.5分の出場時間に留まり、10試合の出場に終わってしまう。2年目も平均9.1分の出場ながら60試合に出場、タフなディフェンダーとして少しずつ知名度も上がっていく。

そしてKG、ピアース、アレンのBIG3結成年にはシーズンを通してスターターとして出場。以降も目立たないスタッツとは裏腹に確実に自らの仕事をこなし、08-09のPOではORLとの対戦でシーズン平均20.6点のD・ハワードをシリーズ平均16.4点に抑えるなど守備力を発揮していた。

一方でオフェンス力はほぼ皆無、ゴール下以外のシュートは基本的に打てず、守備に専念するタイプの選手である。

稀にドライブを仕掛ける場面も見られるが、彼が普段しないようなプレイをした時は大抵ファンブルとなってしまう。また、ミスした際に明らかにファウルが無かった場面でも審判に文句を言う場面が多く、お茶目な選手である。

f:id:LBJ1107ryo:20170508213607j:image

 

とりあえず1巡目で紹介を終えよう...

 

どうだっただろうか?

『この選手も03組だったんだ!』という選手もいただろう。こうやって改めて見直すとやはり歴代屈指の豊作だったことが分かる。

ちなみに03年組からオールスター選出経験のある選手は9人であり、03年組以降の各組からのオールスター選手は最高でも6人となっており、やはり03年組だけ少し差が開いている。

今や03年組のほとんどが引退寸前もしくは衰えが見え始めている選手が多く、ベテランの域に入っている。

しかし、レブロンだけは未だにリーグの頂点に君臨し続けている。ブログのタイトル通り私はレブロンファンであるが、贔屓目を差し引いても現役選手トップであるというのは間違いないだろう。

f:id:LBJ1107ryo:20170508214642j:image

ちなみにそのレブロンだが、実は多くの同年組選手とプレイしている。

例えば先ほど紹介したウェイド、ボッシュ、パーキンスがそうだ。

加えてダンティ・ジョーズ、モー・ウィリアムズ、ジェームズ・ジョーンズ、カイル・コーバーも03年組であり、レブロンとチームメイトになった経験がある(もしかしたらまだいるかもしれません、記憶に頼って書いたので...)。

 

03年組に関してはレブロンのドラフト年というだけで私は少し応援しているところがあるが、特にメロは優勝経験が無いだけに何とか引退までに優勝してほしいところである(現チームの状況は散々だが...)。

一部では『史上最高のオールラウンダー』と評される03年組最高にして現役最高でもあるLeBron Jamesが、少しでも長くNBAで輝き続けることを私は願っている...

 

最後の最後に...

最後まで読んで頂きありがとうございました。本当に暇すぎて時間の有り余る方は是非下記のリンクから動画をどうぞ。笑

2003 NBA Draft - YouTube

"The Big O"

Triple Doubleという記録、これはNBA選手にとって1試合達成するだけでも素晴らしい功績とされている。

そのことを再度確認しておきたい。

Triple Double(以下TD)は1シーズンにリーグ合計で117回起こるなんてのは通常ありえないことである(117回とは今季のリーグ合計達成回数)。

その要因の大半はウエストブルックである。今季はヨキッチやアンテトクンポなどハーデンやレブロン以外にも多数が達成しているが、やはりウエストブルックの印象が圧倒的に強い。ましてシーズン平均TDなんてのは現代においては有り得ない記録である。

ご存知の通りシーズン平均TDはNBA史上でオスカー・ロバートソンとラッセル・ウエストブルックの2人しか達成していない。

f:id:LBJ1107ryo:20170416015601j:image

恐らく今季からNBAを見始めた方もビル・ラッセルを知らなくてもオスカー・ロバートソンは知ってるだろう。

では、皆さんはどこまでオスカー・ロバートソンの偉大なる功績を知っているだろうか?時代が違う為に比較すべきではないものの、ロバートソンはNBA史上最高の選手を議題にして話し合えば名前を出されるほどの選手である。単にシーズン平均TDを達成したから偉大なのではない。それを皆さんに今回は紹介したいと思う。

 

1.バスケット選手となるまで

彼の生まれた時代は人種差別が強く、白人と黒人で住む地域が分かれていた時代である。インディアナポリスで幼少期を過ごした彼は、当時大半の子供が熱中していた野球をするだけの道具を揃えるお金も無く、果物かごを壁に吊り下げてテニスボールを布で巻いたものを投げ入れて遊んでいた。事実上これがバスケットボールのキャリアの始まりである。

やがて高校の進学を迎えるが、バスケができる高校を探す彼にとって当時は黒人の入学を拒む白人学校が多いうえにバスケができる体育館がある黒人学校が非常に少なく、クリスパス・アタックス高校という一択に絞られた。だが、このアタックス高でコーチを務めていたレイ・クロウに出会うことが彼にとっては大きな人生の転機だった。クロウは彼の身体能力に可能性を感じ、基礎から徹底指導した。そしてクロウにより大躍進を遂げたロバートソンは2年生にしてチームを州ベスト4まで導き、翌年には31勝1敗という圧倒的強さで州を制覇(黒人学校として初の快挙)。翌シーズンに入っても強さは変わらず、前シーズンから数えて45連勝を記録し、シーズン全勝+州連覇という偉業を達成。州のMr.バスケットボールに選ばれた彼だったが、それでも優勝記念パーティーを開こうとした際に街から追い出されるなど相変わらず差別を受けていた。

f:id:LBJ1107ryo:20170416235302j:image

↑彼が進学したシンシナティ大学

 

シンシナティ大学に進学以降も、3シーズン連続でNCAA得点王・最優秀選手賞・オールアメリカンに選ばれる。さらにMSGで行われたトーナメント大会では2年生で52点、3年生で62点を記録し、当時のカレッジバスケ界のトップに君臨していた。在学中79勝9敗で、2度ファイナル4にも進出するが優勝できず卒業を迎えた。

卒業後、オリンピックにアメリカ代表として出場。

f:id:LBJ1107ryo:20170416235342j:image

フォワードと登録されたロバートソンだったが実質PGとしてジェリー・ウエスト、ウォルト・ベラミー、ジェリー・ルーカスを含む12人のチームを牽引し平均42.4点差をつけて見事金メダルを獲得。ドリームチーム以前のチームとしては最高と言われている(12人中10人が後にNBA選手となる)。

 

2.世界最高の舞台へ

1960年にドラフト1位指名を受けてシンシナティ・ロイヤルズに入団。

f:id:LBJ1107ryo:20170416235255j:image

すると1年目にして平均30.5点 10.1リバウンド 9.7アシストを記録。平均9.7アシストは当時のNBAでは過去最高の数字となり、さらに平均30.5点もリーグ3位だった。当然オールスターにも選出(この後12年連続で選ばれ続ける)され23点14アシストでオールスターMVP獲得し、もちろん新人王に選ばれた。

さらにオールNBA1stチームにも選出(これも今後9年連続で選ばれ続ける)され、ルーキーにしてリーグトップレベルに到達したのであった。

 

3.伝説の1961-1962シーズン

ロバートソンと言えば、やはりシーズン平均TDだろう。先ほど紹介したルーキーシーズンの成績の時点でほぼTDに近い。実はシーズン平均TDを達成したのはこの翌年、つまり2年目である。

30.8点 12.5リバウンド 11.4アシストで、リーグ初となる平均アシストで2桁を記録し、チームをプレーオフに導く。

さらにプレーオフでも平均TDを記録したものの、敗退している。

(ちなみに彼はNBA入りから5シーズンの平均スタッツが30.4点 10.4リバウンド 10.6アシストとTDなのである)

彼がシーズン平均TDを達成したのは1961-1962シーズン。何か思い当たるシーズンではないだろうか?

あのウィルト・チェンバレンが伝説の1試合100得点 シーズン平均50.4点 25.7リバウンドを記録したシーズンである。

結局このシーズンはロバートソンはMVPに選ばれなかった。

しかし、チェンバレンもMVPではなかった。

では誰がMVPだったのか。

 

 f:id:LBJ1107ryo:20170416183855j:image

当時チェンバレンと双璧を成した伝説のビッグマン、ビル・ラッセルである。

NBA初のRSでの60勝到達(60勝20敗)を記録したセルティックスを率いた彼は、シーズン平均18.9点 23.6リバウンドながらロバートソンとチェンバレンを抑えてMVPに輝いたのだ。

今思えばこの時から既に勝利への貢献度は個人スタッツよりもMVPを選出するうえで重視されていたのだろう。

毎試合50点を出していたチェンバレンとファイナルで対戦するも結局セルティックスが優勝し4連覇を達成したのであった。

 

4.ついに栄光へ

セルティックス王朝だったNBAだったがロバートソン率いるロイヤルズは1962-1963シーズン、5連覇を目指す最強セルティックスと対戦し第7戦で惜しくも敗退。

 そして翌シーズン、新HCの下でロイヤルズ史上過去最高の55勝を記録、ロバートソンはついにMVPを獲得した。

ちなみにこのロバートソンのMVPは60年代の中でチェンバレンラッセル以外の選手が受賞した唯一のMVPである。

f:id:LBJ1107ryo:20170416235428j:image

(逆に言うと10シーズン中9シーズンはこの2人でMVPを取り合ったのである)

しかし昨シーズンに5連覇を達成しているセルティックスにまたしても敗れ優勝には届かず。

MVPという個人賞としては最高の栄誉を浴びたものの、最高の舞台"ファイナル"に立つことは叶わなかった。

 

5.突然の移籍

以降のロバートソンも個人スタッツは凄まじく、ロイヤルズ所属中に6度のアシスト王となるなど、十分な成績だったが、プレーオフでは3年連続CSF敗退などチームは勝ち上がれず。

1967-1968シーズンにはついにプレーオフに出ることすら出来なかった。地元ファンも勝てないチームに応援の熱は薄れていく。

そして1969-1970シーズン、当時ロイヤルズのHCを務めていた伝説の選手ボブ・クージーがチームの為に選手として復帰、HC兼選手となった。しかし、チームは成績を上げることはできず、ついにこのシーズン終了後にバックスとの間でトレードが成立。

チームの中心として引っ張り続けたロバートソンが突然トレードされたのである。なぜ突然放出されたのかファンは困惑したが、クージーHCとの確執が原因とされており、確たる証拠は無かったもののクージーは自身の保持していた様々な記録を塗り替えるロバートソンに嫉妬していたと言われている。

 

6.伝説のデュオ誕生

ロバートソンのトレードから少し遡り1969年ドラフト。

NBAには新たな支配的プレイヤーが現れた。

大学で強烈な存在感を放ち、当然の如く1位指名されたルー・アルシンダーである。

ところで、皆さんはアルシンダーをご存知だろうか?

 

スラムダンクを読んだり、昔のNBAに興味がある方なら必ず知っているはずだ。なにしろNBA史上最高のセンターの1人とされており、必殺技"スカイフック"を武器に通算得点記録歴代1位となったあの選手なのだから。

 

 f:id:LBJ1107ryo:20170416235527j:image

 そう、アルシンダーとは後々改名しカリーム・アブドゥル・ジャバーとなった彼である。

そして彼が指名されたのはバックスだった。

ルーキーながら圧倒的な活躍で前年から勝ち星を2倍にしたアルシンダー、オフにリーグトップクラスのPG ロバートソンを獲得したバックスはリーグ最高となる66勝を記録、当時NBA新記録となる20連勝を達成したうえ、ロバートソン自身ロイヤルズ時代は1度も立てなかった念願のファイナルの舞台に進出。

f:id:LBJ1107ryo:20170416235547j:image

ファイナルではウェス・アンセルド、ガス・ジョンソン率いるボルティモア・ブレッツと対戦。ファイナルまで2敗しかしていなかったバックスはファイナル4連勝でスウィープ。ロバートソンは移籍1年目にして優勝を成し遂げた。

 

7.そして終幕へ

 優勝した翌シーズン、既に12年目で33歳の彼は慢性的な足の故障をかかえることになった。さらに長年追い求めた優勝を手にしたこともあり引退を考えていた。だが、ここからバックスで3年間プレイ。彼が在籍した4年間バックスはディビジョン制覇し続け、3年連続60勝超えを果たすなどリーグトップクラスであり続けた。

そしてロバートソンにとってラストシーズンとなる1973-1974シーズン、彼にとって2度目のファイナル進出となる。

しかし、有終の美を飾るこのチャンスの前に立ちはだかったのはまたしてもセルティックスだった。

ビル・ラッセルは既に引退していたが、ジョン・ハブリチェックとデーブ・コーウェンスという後のレジェンド達が率いる緑の軍団とまたしても第7戦までもつれる大激戦の末に敗北。

ついに引退を決意し、ロバートソンはNBAを去った。

 f:id:LBJ1107ryo:20170417004243j:image

 

8.彼の残した功績

ロバートソンのラストシーズン、バックスは59勝という好成績だった。しかしロバートソンが去った翌シーズンのバックスは38勝という成績の変化がロバートソンの影響力を物語っている。

 

ロバートソンがNBAに残した影響は大きい。

196cm 100kgという体格は当時の基準ではフォワードとなり、当たり強さに加えてスピードはガード並み、さらにバスケIQが非常に高かった為、いわゆる現在のレブロンにあたる選手である。

またレブロンマジック・ジョンソンのようなポイントフォワードというスタイルの先駆者で、当時のバスケの常識を大きく覆した。

また近年ではごく普通の技術であるヘッドフェイクやフェイダウェイシュートは当時はまだそれほど知られていない技で、ロバートソンが普及させた技術と言われている。

そんな彼のキャリアを振り返る中で必ずポイントとなるのが、先ほど紹介した『シーズン平均トリプルダブル』である。

が、実はこの記録を達成した当時はトリプルダブルという概念そのものが無かった。というのもそもそも平均アシストが2桁というのが当時では考えられない記録でロバートソンが初の2桁に乗せた張本人だからである。その為、ロバートソンがキャリアで181回もトリプルダブルを達成していたことなど認知されていなかったのである。

 

ところが1980年代にマジック・ジョンソンがトリプルダブルを連発。すると、トリプルダブルという記録を改めて調べ直すとロバートソンのとんでもない記録が発覚したのである。

また、カレッジバスケ界ではロバートソンの功績を讃えて栄誉ある賞の1つに「オスカー・ロバートソン・トロフィー」という名前が付けられている。

 

9.オスカー・ロバートソン訴訟

ロバートソンの残した偉大な功績の中でも特に大きいのがこの訴訟である。

詳しく語るとかなり難しい話になってくるので少し軽く(今回の記事が長すぎて疲れているというのが本音ですが)説明すると、

現在世界のあらゆるプロスポーツリーグよりもNBA選手の平均年棒が高いのは、ロバートソンが選手会長を務めていた時期に制定したフリーエージェント制の確立による、リーグに対する選手の立場の向上がキッカケだと言うことである。この制度の制定の為に6年間に及ぶ裁判を行ったロバートソンのおかげで年棒が上がり始めたのだ。

 

選手会長として、NBA選手として、大学生として、あらゆる立場からバスケに影響をもたらし、史上最高のオールラウンダーと呼ばれる彼の凄さが少しは伝わっただろうか。

最後に一言だけ、言いたい。

5000文字突破しているんです。

読み直しながら書き足して書き直してを繰り返す結果5000文字に達しているんです。

 

前回のバスケの起源の記事に比べて、少々読みづらくなっていると思いますが、

最後まで読んで頂き、

本当にありがとうございました。

そして、

読破おめでとうございます(・ω・)

 

最後に殿堂入り選手であるネイト・サーモンドがオスカー・ロバートソンの凄さを物語っている名言があるのでこれを今回は締めの言葉にさせて頂きたい。

 

オスカーは高く跳べなかったが、

それ以外は全てが

ジョーダンより上だ。

3KINGSの"影"

恐らくNBA観戦歴の浅い方でもご存知『3KINGS』と呼ばれ、スモールラインナップとパワーハウス形成の流れをNBAに持ち込んだ3人組。

1年目と最終年こそ優勝は叶わなかったものの毎年ファイナルに出場し続けていた彼らだが、レブロンボッシュ・ウェイドに注目して記事を書いたところでそんな記事は他にいくつもあるだろう。私は私生活も含めて皆と同じような事をするのがあまり好きではない。だが、あの好きだった頃のMIAの記事を書きたい。

そして思いついた。

『あえて3KINGSを除いて書けばいいのでは?』

ということで、今回は3KINGSの4年間の中で影から彼らを支えた選手達を取り上げたいと思います(・ω・)

それでは、Let's go HEAT !!

f:id:LBJ1107ryo:20170410000935j:image

 

1.Mario Chalmers

f:id:LBJ1107ryo:20170411001827j:image

恐らく彼ほど3KINGSの影として適正なPGはいなかったのではないか。レブロンにも物怖じすることなく食ってかかれる性格に加え、プレイを組み立てるタイプでないこともレブロンのチームメイトとしては利点だっただろう。初優勝したOKCとのファイナルではレブロンが足を引きずりながらコートを去った際にギアアップし勝利を引き寄せるなど、強心臓でもある。何より彼は『自分はチームで最高の選手だ』という気持ちでいたらしい(レブロンやウェイドがいる中でこの自信はある意味凄い)。また当時INDにいたヒバートの鉄壁を崩すべくレブロンにフローターを伝授したのは彼である。ちなみにルーキーシーズンには34位指名ながら全82試合を先発で出場、平均2.0スティールでリーグ4位だった。

 

2.Joel Anthony

 f:id:LBJ1107ryo:20170411004222j:image

誰か知らないという方もいるだろう。

しかしあのMIA時代を知る方なら必ず覚えているはずだ。206cmのセンター、僕は後々紹介するバードマンよりもジョエルが好きだった。彼ほど『もう少し身長があれば』と思った選手はいない。とにかくファウルをせずにブロックするのが上手い。一般的なブロックが『叩く』のなら彼のブロックは『触れる』に近い。

https://youtu.be/ffSjS60Hj88

暇な方は是非↑

 

ちなみに彼は大学時代に40分換算で6.77ブロックを記録しカンファレンス最優秀守備選手に選ばれ、とある試合ではシーズン唯一のダブルダブル(しかも13ブロック 11リバウンド)を記録している。

 

3.Chris Andersen

f:id:LBJ1107ryo:20170411020243g:image

先ほど彼よりジョエルの方が好きだと罵られる側で紹介した彼だが、これほど覚えやすい選手はいないだろう。数字以上にチームに勢いをもたらす選手の代表格。ホーム戦では3KINGSを除いて彼ほど盛り上げれる選手はいなかったではないだろうか。リバウンドに不安の残るMIAにオファーをもらい、即戦力に。

プレーオフではゴール下で無類のフィニッシュ力を見せ、連覇に大いに貢献した。

 

4.Shane Battier

f:id:LBJ1107ryo:20170411021448j:image

実はBattle(バトル)という名前だった彼だが、とある書類に父親が書く際あまりにも字が汚くBattierと読まれて以降名前が変わったらしい。そんなバティエだが、MIAでは最高のロールプレイヤーだった。特に2012-2013ファイナル第7戦では、プレーオフ中を通してスランプ状態だったにも関わらず3Pを6/8で沈め連覇がかかっていた試合で驚異の活躍をした。彼のバスケキャリアは非常に稀でおり、NBAでは最高クラスの守備と史上最高と言われるバスケIQがウリな職人だが、大学時代はネイスミス賞を含むあらゆる個人賞を獲得し、MVPも取っている。NBAでのキャリアもスタッツではルーキーイヤーが最も良いのだが、彼のスタッツが下がっても評価は年々上がっていた。まさに『数字に残らない選手』であった。

 

5.Mike Miller

f:id:LBJ1107ryo:20170411022635j:image

MIAではシューターという役割を確実に果たしていたが、元々はオールラウンダーで、新人王も獲得している。MIA時代も地味にアシストやリバウンドをこなしており、ゴール下でのフィニッシュ力もあった。2012年のOKCとのファイナル第5戦では3P 7/8と完全にゾーンに入っていた。

ちなみにその2012年と2013年の2年連続ファイナルで靴が脱げた状態で3Pを決めている。

 

6.Juwan Howard

f:id:LBJ1107ryo:20170411024216j:image

90年代のアメリカバスケに詳しい方ならよく知っているであろうハワード。ミシガン大で1年生5人が先発という異例の起用ながら快進撃を見せ"ファブ・ファイブ"(驚異の5人)として名を馳せた1人である。

 MIAのこの4年間では初年度から戦力外ではあったが、ロッカーでのリーダーシップなど試合では見えない貢献が評価され残り続けていた。優勝後2013年からは選手ではなくACとしてMIAに残り続けている。3KINGS時代1年目ではガベッジタイムでの出番が多かったものの、出場するとガベッジタイムとは思えない熱量で相手選手に食ってかかってはテクニカルファウルを吹かれており、彼が激昂してるなかでチームメイトも冷めた顔で止めに行く場面がしばしば見られた。

 

7.Udonis Haslem

f:id:LBJ1107ryo:20170411025623j:image

もちろん左側の選手ですよ〜。

長くMIA一筋でチームを影から支え続けるまさにMIAの魂。マイアミ高校 フロリダ大学出身の生粋の地元選手。身長203cmにしてDRの能力が非常に高く、2010-2011シーズンには平均出場時間26分にして平均8.2リバウンドと非常に高い。最も得意なシュートスポットは0度のミドルという変則スポット。献身的なプレイと確かな守備力で貢献し続ける一方、見た目通りの喧嘩っ早い性格で、INDとのPOではウェイドにハードファウルを仕掛けたハンズブローを後々ハードファウル仕返すなど、チームメイトを守るボディガード的な一面もある。

 

8.Norris Cole

f:id:LBJ1107ryo:20170412171934j:image

3KINGS結成2年目にドラフト28位で指名される。CHIに指名された後、MINを経由してMIAに加入することとなる。

デビュー2戦目から20点 4リバウンド 4アシストを記録し、チャルマーズから先発の座を奪うのではないかとまで言われていた。2012年のOKCとのファイナル第5戦でも第1QでOKCペースだった中ベンチから出場し、MIAが逆転するきっかけとなるなど、『同年ドラフト屈指の掘り出し物』と称された。3KINGSとも相性が良く、2番手PGとして高水準のパフォーマンスを続けていた。

 

9.Ray Allen

f:id:LBJ1107ryo:20170412173504j:image

もはや説明不要の選手。影と紹介するには余りあるキャリアを持ち、当時ライバル関係だったBOSから来た最高の刺客。MIA加入直後の開幕戦の相手がBOSで、KGに挨拶するも無視されたのがまだ記憶に新しい。RSから度々チームを救う3Pを沈め、NBA史に残るSASとのファイナル第6戦の同点弾は恐らくNBAファンなら誰もが知る名シーンだろう。

 

10."A living legend"

f:id:LBJ1107ryo:20170412174743j:image

A living legend(生きる伝説)とGM界で呼ばれるPatt Rileyは3KINGSの真の影と言ってもいい。何と言っても彼が3KINGS結成を目論み、ボッシュレブロンに声を掛けた張本人なのだから。彼の詳しいキャリアに関してはまた別に記事で書こうと思っているので割愛(こんな記事の一角では紹介できないほどの伝説を残している)するが、この4年間でも彼の貢献は高い。バードマン、ルイス、コールのいずれもMIA加入前は周りから期待されていたわけではない。バードマンはDENから見放され評価は駄々下がり、ルイスはキャリアも終着点が見え始め衰えが隠せない状態、コールは前評判は高くなく特に注目されてはいなかった。そんな彼らを3KINGSの周りに配置し、見事に補強に成功している。ライリーは非常に選手の潜在能力を見抜く才能があり、2003年ドラフトであらゆるスタッフが他の選手に目を向ける中でウェイドに目を付けたのもライリーなのだ。

 

10-2.Erik spoelstra

f:id:LBJ1107ryo:20170412180909j:image

10-2としたことに関しては後ほど(恐らくほとんどの方は何となく分かるはず)。

3KINGSを束ねて統率するという非常に困難な役割を担ったHC。結成当初はチームとしてのスタイルの確立に苦労し、RS中を通して不明確なままPOに突入するなど、HCとしての力量不足を指摘されていた。が、2年目から吹っ切れたようにウェイドとレブロンのドライブを中心としたスタイルに重点を置き、守備ではトラップディフェンスで相手を封じ、3KINGSを見事に優勝に導いた。元々ビデオコーディネーターを長年していたこともあり映像から分析することに非常に長けており、POでは敗戦後の試合のほとんどが問題点を改善した上で勝利している。

では何故10-2と表記したのか。

それはスポールストラがNBAに入った理由が10で紹介したライリーからのビデオコーディネーターのオファーだったからである。

つまり3KINGS時代の基盤である

・スポールストラ育成の始まり

・ウェイドの指名

・3KINGS結成

の全てはライリーの行動である。

恐るべし。

 

もちろん他にも戦力になりきれず外れた選手達もいる。アローヨ、オデン、ビーズリー、ビビー、ハウスなど...

 

 

バスケの起源と最初の日本人

バスケットボールはジェームズ・ネイスミスが考案した、そんな程度でこの記事は終わりません。そこからもう少し掘り下げて、バスケットボールのルールが現在に至るまでの過程、なぜバスケットボールと呼ぶのか、そして日本人がバスケットボールというスポーツに初めて触れたのはいつ頃なのか。

余談ですが、僕がこのLeBlogを復活させた一番の理由が今回の記事です。どんなスポーツにも歴史があり、それらを知る事で得るものは必ずあります。

ということで、長くなるであろう今回の記事を書き始めます...

f:id:LBJ1107ryo:20170407094035j:image

 

1.新たなスポーツの創造

アメリカ マサチューセッツ州のYMCAトレーニングスクールでは、冬の体操中心のプログラムに全米のYMCA学生達は意欲が無く、競技的要素のあるプログラムを求められていた。そこで体育部主事が5人の体育教官を集め話し合い、『新たなスポーツを創るしかない』という結論に達した。その5人の内の1人であったネイスミス(ちなみにカナダ人)はアメフト・サッカー・ラクロスを屋内で行おうとしたが失敗に終わる。

そこでネイスミスは各スポーツからいくつか要素を取り出すことにする。

まずボールの使用、そしてラフプレーを防ぐ為にボールを持ったまま走ることの禁止(実質タックルの禁止です)、安全性を重視しゴールを頭上に設置。これらがいわゆるバスケットボールの原型である。

ちなみに新たなスポーツを創造するという点に関して、たった1人で初期の形を作り上げたという前例は非常に少ない。

f:id:LBJ1107ryo:20170407094207j:image

 

2.最初の試合と名称

1891年12月21日、新たなスポーツの試合が行われた。この試合では各チーム9人で11×15mのコートを使用。ネイスミスは45cm四方の箱を求めたが用意出来ず、代理として桃を入れる籠を使用、そしてボールはサッカーボールとした。籠が設置された高さは3.05m、つまり現在まで変更されていないのである。

ちなみにこの9人にはポジションがあり、ゴールキーパー1人・ガード2人・センター3人・ウイング2人・ホーム1人(ホームとはどこなのかは不明であるが...)と決まっていた。

試合は開始から約1時間後に初のゴールが決まって終了となっている。

その後、学生とネイスミスの間でこのスポーツの名称について議論。とある学生が『ネイスミス・ボール』と提案したが、当のネイスミスがそれを拒み、籠を使っていることからバスケットボールとしたという。

f:id:LBJ1107ryo:20170407100815j:image

 

3.バスケットボールの進化

翌年、ネイスミスは競技として全国のYMCAに取り入れるべく13のルールを制定。これらが基礎となり現在までに250以上のルールが制定されている。

ちなみにネイスミスの13のルールには人数は明確に規定されておらず、同人数ならば良いとされていた為、とある大学では50 on 50という大規模な試合が普通の体育館で行われ、担当した教師が「体育館が破壊されかねない」という名言(?)を残している。

 人数に関しては1894年にコート面積に応じて5/7/9人と細かく設定され、1897年に現在と同じコートの面積 5人体制に定められた。

そしてもう1つ、バスケットボールの由来である籠も当然進化している。

籠である最大のデメリットは何だろうか?

入ったボールが落ちてこないのである。笑

当時はシュートが決まると、梯子や棒を使い取り出していたという。そして金属製円筒になり、少しずつ改良を続けた末、1913年あたりでようやくネットの底を通り抜けられる現在の形となった。

長い過程で進化しているリングだが、1つだけ最初から完成していたものがある。リングの内径である。ネイスミスが最初に要求したのが45cm四方の籠、現在のリングも内径45cmなのである。つまりネイスミスが考え出したこの大きさが誕生以降1度も変更する必要なく現在に至っているのである。

そしてここで1つ見て頂きたい。

f:id:LBJ1107ryo:20170407163239j:image

当時の籠を体育館で3.05mに付けるとこの位置である。例えば贔屓のチームに勝たせたいという強い気持ちで上のギャラリーから見ている客は何ができるのか。手足や棒で邪魔するのである。

もう勘のいい方は気付かれているだろう。それを阻止するべく誕生したのが、バックボードである。現在ではレイアップなどあらゆるシュートに使われるボードだが、実は全く違う理由で取り付けられたのである。設置当初は金網を設置、1904年から木の板になったが、こうなるとギャラリーからは入ったのか判別がつかない。そこで透明のプラスチック板になったのである。

ちなみにバックボードは当時エンドライン上にあったが、リングが61cm内側に設置されることになり、自動的にバックボードもコート内に設置されるようになっている。

 

このように進化に次ぐ進化を遂げてきたバスケットボールだが、僕は以前この事を知り、それ以来ジェームズ・ネイスミスさんを尊敬している。誕生直後から既に現在にある程度近い状態であることに驚いたからだ。どんなスポーツでも時間と共に進化しているとは思うが、何も形の無い状態からスポーツをほぼ1人で作り上げるのは相当困難だろう。

ちなみに1892年に正式にバスケットボールと名称が決定した際は

『Basket ball』となっていたが、

『basketball』に1921年に改名されている。

 

さて、そのバスケットボールを最初にプレイした日本人は誰なのか。

ここで石川源三郎という知る人ぞ知る名前が現れる。

彼はいつバスケットボールを初めてプレイしたのか。

 

1891年12月21日である。

 

何の日かご存知だろうか?

f:id:LBJ1107ryo:20170408002609j:image

どうですか?気付きましたか?

それでは...

f:id:LBJ1107ryo:20170408002947j:image

石川源三郎が初めてプレイした日は、

ネイスミスが最初の試合を行った日である。

実は彼は渡米しておりマサチューセッツ州のYMCAトレーニングスクールに通っていたのである。そしてあの冒頭で登場した初の試合の18人の1人である。

ちなみに最初のゲームのスケッチというのが残っているのだが、これを書いたのも石川源三郎である。

f:id:LBJ1107ryo:20170408001228g:image

 

少し付け加えると、日本にバスケをもたらした人物という点に関しては、1908年に大森兵蔵という人物が同じくマサチューセッツ州YMCAから帰国した後に東京のYMCAでバスケットボールを紹介したのがきっかけとされている。石川源三郎が初の試合後に帰国しバスケットボールを日本にもたらしたという説もあるが、石川源三郎が帰国した時点ではバスケットボールを広めるだけの設備や器具などの環境が日本に無かったとされており、大森兵蔵説が一般である。

ありがとう、大森兵蔵さん。

(笑)

_____________________

 

と、長々と書き綴りましたが、どうだったでしょうか?

バスケを愛している・NBAを愛している方でも意外に知らない点は多かったのではないでしょうか?

こんな歴史を知ったところで何の役にも立たないかもしれません。

 しかし、ジョージ・マイカンのように選手の立場からバスケットボールを進化させた人物も多く、彼らの存在と業績を現代の僕達が知る事は過去の偉人達に感謝をすることになると僕は思います。

 

今『ジョージ・マイカンって誰だよ』となった方、安心してください。

またそのうちマイカン記事も書きます(・ω・)

 

と、いうことで今回の記事、実は3000字超えました(ブログ初心者の僕にしては頑張ったはず)。

Twitterにリプでもブログ内にコメントでも良いので感想を頂けると有難いです。

 

他の記事(まだ実質2つ目)はともかくこの記事は色んな方に楽しんで頂けるかなと思ってますので...

 

RT沢山して頂けることを

祈ってますね!

 

そして最後に...

ここまで読んで下さった方、本当に嬉しい限りです。頑張って書いた甲斐がありました。

本当にありがとうございます。

読破おめでとうございます。笑

 

また近々新記事書かせて頂きます!

 

それではまた...

Log Out !!

f:id:LBJ1107ryo:20170408011704j:image

LeBron James、NBAに入るまで。

初記事はやはりこのお方でないと。

f:id:LBJ1107ryo:20170406113038j:image

LeBron "KING" James

この選手の説明が必要とするような人は恐らく僕をTwitterでフォローしていないだろう。今回はそんなLeBronのNBA入りまでを軽く話しつつ、僕の意見を混ぜて語ろう。

 

1984年12月30日、決して裕福ではない家庭に生まれたLeBronだが、その体に宿した運動神経は常人を超えていた。

バスケットとアメフトの2つのスポーツに熱中し、地元の高校に入学。1年目からエースとなり、27戦全勝で第3部チャンピオンへ。

2年目は更に成績を伸ばし25.2点 7.2リバウンド 5.8アシスト(この時点で現在のプレースタイルにかなり近い)を記録し、決勝戦では高校生ながら17000人の観客が集まる中で見事に連覇達成。

実はこの時既にNBAからも注目され、ワークアウトに招かれている。

加えてこの年はアメフトでも州の1stチームに選出されている。

3年目、州の第2部に昇格したこともあってか3連覇は叶わず。しかし年間最優秀選手に選ばれ、KG以来となる高校生としてスラムマガジンの表紙に抜擢、他にも複数の雑誌から表紙に選ばれる。

怪我をしたことでアメフトを諦め、バスケット一筋と決めたLeBronだが、ある意味ここがLeBronの人生の大きな分岐点だっただろう。

 

f:id:LBJ1107ryo:20170406114725j:image

 

 

4年目(アメリカでは州によって制度が異なり、小中高が5-3-4 6-2-4のパターンが多い)となるシーズン、31.6点 9.6リバウンド 4.6アシストを記録し、3年連続のミスター・バスケットボール、オールUSA1stチーム、2年連続の年間最優秀選手に選出される。

彼が"The Chosen One"と言われていたのも頷ける。

ちなみに有名な話だが、4年目となるシーズン中にLeBronの誕生日に母親がハマー(高級車)をプレゼントしたことを体育協会が問題視し、2試合の出場停止処分を受けている。

 

大学への進学ではなくNBA入りを選んだ彼はまだ在学中(つまり高校生)でありながらNIKEと7年9000万ドルという巨額契約を結んでいる。

ちなみに2003-2004シーズンのダンカンの契約額が1267万ドルでLeBronのNIKEとの契約が9000÷7で1年約1285万ドルとなる。

つまりダンカンのSASとの1267万ドルよりLeBronのNIKEとの額の方が上回っている。

f:id:LBJ1107ryo:20170406153004j:image

 

ここからは僕の意見を少し加えたい。

僕がLeBronを好きな理由の1つがクラッチタイムであろうと躊躇無く味方にパスも出せるそのスタイルである。普通これだけの得点力と身体能力があれば、貪欲にゴールを狙うと僕は思う。例えばコービーならダブルチームされようと打てるだけのスペースを確保できるなら打つだろう。それが彼のスタイルで、別に悪いことではないと僕は思う。LeBronはフリーの味方がいれば自分にシュートチャンスがあろうともすぐさまパスを出す。学生時代からチームメイトを家族のように大切にし、コーチの家にも居候していた。そういった経験がLeBronのプレイスタイルをそうさせているかもしれない。

今やベテランの域に入り、NBAでも旧世代となってきたLeBronだが、僕はまだまだ彼を見続け、いつか来る引退の日までNBAのスターでありつづけてほしい。

f:id:LBJ1107ryo:20170406154853j:image

 

I'm Back.

ということで、以前ブログ書いてましたレブ郎がこの度復帰しました。

以前と同じく『LeBlog』という名で書いていきたいと思います(・ω・)

 

Twitterとは違い、レブ郎の意見や感想を存分に盛り込んで書いたり、少しプライベートを書いてみたりもしたいと思います。

f:id:LBJ1107ryo:20170406024709j:image

ということで、

よろしくお願いします(´・∀・`)