LeBlog

レブ郎が自由に書くブログです。

コーヒー片手に是非。

今回はほんのちょこっとの気軽に読めるような、何でもないような話を少しずつ摘んで集めた記事です。

あなたが左手に持つそのコーヒーを飲み終える頃には記事も読み終えているはず(・ω・)/☕

 

① Kevin Durant

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近年急激にアンチを増やした彼は07年ドラフトにて2位指名。1位はあのオデンで、03年以来の豊作と言われたこの07年。NIKEは2位のデュラントに対して7年6000万ドルという巨額で契約。新人としてはレブロンに次ぐ歴代2位の高額契約だった(歴代1位のレブロンは7年9000万ドル)。

 

2.John Stockton

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史上最高のPGを語る上で欠かせない人物の1人だが、学生時代は意外にも無名選手だった。現在 八村 塁が在籍するゴンザガ大出身の彼は4年生の時に平均20.9点 7.2アシストを記録。一部の人からは実力を認められていたこともあり、オリンピックの代表選考会に呼ばれるも落選。その後のドラフトでは『自分が呼ばれるわけがない』とドラフトの様子をTV中継で見ていたという。しかし自宅で過ごすストックトンが16位でUTAから指名され本人はかなり驚いたという。

ちなみに、堅実なプレイと落ち着いた容姿からスポーツ選手の鑑のように思われがちだが、実はかなりのダーティープレイヤーであのロッドマンが『リーグで最も汚いガード』と言っているほどである。

 

3.Clyde Drexler

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『クライド・ザ・グライド』と呼ばれたNBA史上屈指のダンカー。『50人の偉大な選手』にも選ばれている彼だがキャリアの大半を過ごしたPORで1度も優勝していない。そんな彼がキャリアで唯一優勝したのがHORでオラジュワンと手を組んだ1995年。この事からキャリア末期に強豪に移籍して優勝することを『ドレクスラー・シンドローム』と呼ぶことがある。

 

4.Jason Kidd

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現在MILでHCを務める彼は歴代屈指の司令塔であり、人気も高く全てのプレイを卒なくこなしトリプルダブルを達成していたことから『Mr.トリプルダブル』と呼ばれていた。

3P成功数では歴代8位を記録しており、守備でもオールディフェンシブに選ばれているが、実はNBA入り直後はジャンプシュートが苦手でルビオのような存在だった。この事から彼の愛称は『ason Kidd』となった。ジャンプシュートの『J』が無いという意味である。

 

5.Jamal Crawford

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今オフにMINへの移籍を選択した彼は6thマンとして起爆剤の役割を果たすスコアラーである。キャリア平均は15.3点で決して高くはないが、これは不安定故の平均点で、爆発力に関しては現在でも相手にとって脅威である。しかし移籍が多く、現在のMINでついに7チーム目となる。また、彼の持つNBA記録は少し特殊で、4ポイントプレイ(つまり3Pを沈めつつファウルを貰う)の成功数で歴代1位、さらに様々なチームで50点以上を記録してきたことから「在籍した3チームで50点を記録」した唯一の選手となっている。チームのエースではなく、爆発力を秘めた6thマンのスコアラーだからこその記録である。

 

以上、ちょっとした豆知識でした。

明日からのお仕事に是非役立てばと思っています(・ω・)

 

 

 

 

⚠️あの伝説の選手『George Mikan』の記事が作成中との極秘情報がESPNのwojより報告されている。

伝説の選手のキャリアを振り返る歴史的な瞬間を見逃すな!

 

合併された幻の"ABA"

1967年、経営が上手くいき始めていたNBAはリーグ傘下のチーム数を10チームに増やし、ビル・ラッセル率いるBOSの1958年から始まった連覇は1966年に8連覇でようやく終わりを告げ、群雄割拠の時代を迎えようとしていた。

しかしNBAのチームを持たない都市の財界人達は、人気上昇中のプロバスケチームに興味を抱いていた。しかし、新たなチームを作ってNBAに加入するには高額な支払いが必要だった為、チーム作成に興味を持つ者達が集まり、新リーグ発足の声が上がったのだ。

こうして誕生したABAは主にNBAのチームが存在しない都市に創設された11のチームで成り立った。

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そんなABAの初代コミッショナーに招待されたのは1948年から1954年にかけて選手としてバスケットボールの概念を大きく変えたGeorge Mikanである。

コミッショナーNBA創成期の再重要人物を迎えたABAは、ライバルリーグのNBAよりも優れた選手を多く獲得するべくある策を打ち出す。

当時大学卒業生のみをドラフトの対象にしていたNBAに対し、ABAはそれらの制限を設けなかった。これにより高卒選手のドラフト指名がABAでは可能となったのだった。

さらにABAとNBAの間での選手の奪い合いも熾烈で、下手投げフリースローのリック・バリーはNBA→ABA→NBAとリーグを行き来しながらプレイしていた。

他にもジュリアス・アービングジョージ・ガービンなどNBAの歴史に名を残す名選手達の中にも2つのリーグでプレイした選手は少なくない。

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↑ABA初年度ロゴ一覧

 

そんなABAだが、リーグ自体はわずか9年という短さで幕を閉じてしまう。理由としては、いくつかの球団の著しい経営悪化だった。今でこそ大体のNBAのチームは毎試合大勢の観客が訪れており、シーズンを通して空席が過半数を超えるようなチームなど存在しない。だが当時のABAは1万人を超える観客が集まる試合もあれば200〜300人しか集まらない試合もあり、偏っているのは明らかだった。また、1970年頃からABAとNBAの合併を希望する声が出始めていた。

そして最後のシーズンとなった1975-1976シーズンには9つのチームがABAに在籍していたが、シーズン戦11試合目を終えたサンディエゴ・セイルズが将来性が無いとしてチーム解体を決断。皮肉にもセイルズはABAで唯一のエクスパンションチーム(簡単に言うとリーグ側がチーム数を増やす為に創設されたチーム)だったのだが、ABAが水面下で進めていた「NBAとの合併計画」にセイルズは含まれておらず、セイルズの未来は既に見捨てられていた事をオーナーが知り、解体の決断に至ったという。

その少し後にユタ・スターズもシーズン戦16試合目を終えた時点で解散。スターズはABA史上でもかなり成功していたチームだが、前年のABAチャンピオンシップゲーム(プレーオフ)での1回戦敗退に続き、4勝12敗とスタートダッシュに失敗してしまい解散を余儀なくされる。

この時点でABAからは2つのチームが解体され、リーグ全体で7チームとなっていた。

そしてこのシーズン終了後に2つのリーグが合併、そのうちNBAに吸収されたのは現在もNBAに所属しているサンアントニオ・スパーズインディアナ・ペイサーズデンバー・ナゲッツ、ニューヨーク・ネッツ(現在のBKN)の4チームだった。

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ABA自体は9年間と短い歴史だが、所属していたチームは移転や改名を含めると計28チームで、1シーズンで消滅したチームも少なくない。逆にファン目線で見ると、度々名称や本拠地を変更し、選手もリーグを超えて入れ替えながら戦うチームを愛するのは難しかったのかもしれない。

しかしこの9年間のABAの奮闘こそが今のNBAにとって重要だったことはあまり知られていないだろう。

ここからはABAというリーグの特徴を少し紹介しよう。

 

ABAは最後のシーズンを除いて『イースタン・ディビジョン』『ウエスタン・ディビジョン』という2つのディビジョンから成り立っており、各ディビジョン4位以内がプレーオフ進出という制度だった。ちなみに順位が同じ場合は現在のようなタイブレークではなく、順位決定戦を1試合行っていた。プレーオフは4戦先勝方式と現在のNBAと基本的な形はほぼ同じであるが、ABAは最終シーズンのみ7チームでプレーオフを迎えた為、上位5チームがプレーオフに出場。1st Roundは4位と5位だけで行い、その後は通常のトーナメント方式だった。

 

ここまではNBAと類似しているABAだが、リーグの存続を争っていたNBAと差別化を図るためにいくつかの独自の要素を取り入れている。その1つが『スリーポイントシュート』である。

NBAでは1979年に導入されたが、元々はABAがエンターテインメント性を求めて当時のコミッショナーだったジョージ・マイカンが導入したものである。そしてABA消滅から2年後にNBAに導入されている。現在のNBAではカリーを始め3Pに重点を置く選手やチームは多数存在しているが、奇しくもライバルリーグ発祥のルールの1つである。

さらにABAはショットクロックNBAの24秒に対し30秒と大きく時間を伸ばした。最後のシーズンではなんとファウルアウトの制度を撤廃し、6つ目のファウルを犯してもコートに残れる状態となった。何の意味があったのか...

(ただし相手チームにFT2本とポゼッションが与えられる)

 

"ABAが現代に遺したもの"

これまでの記述だと、ABAの遺産は『スリーポイントシュート制度』のみだが、これに関してはNBAのみならず国際ルールに採用されているという点も含め賞賛に値する点だろう。だが、さらに隠れたところにまだ"ABAの遺産"は残されている。

その1つがABAの象徴ともいえる3色ボールだろう。

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マイカンが考案したこのボールは愛国心として赤・青・白を用いたもので、試合中に見栄えが良いものである。

このデザインはNBAのレギュラーシーズンで使用されることはないが、どこかで見た覚えがあるはずだ。

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そう、オールスターのスリーポイントコンテストである。得点が2倍と勝敗を左右するあの貴重なマネーボールとして使われているのである。

 

さらに現在もオールスターで毎年行われているダンクコンテストも、元々はABAが最後のシーズンのオールスターに取り入れた画期的な取り組みの1つである。そしてバスケットボール史上屈指のダンカーとして名を残すジュリアス・アービングが決めたレーンアップ(FTレーンからのダンク)がもし無ければ、ダンクコンテストは存在しなかったのかもしれない。

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このようにABAが9年間の間、NBAに対抗すべく打ち出した独自の要素は結果的にNBAの発展に貢献している。

1つ加えておくと、3色ボールとスリーポイントシュート制度を取り入れたマイカンはバスケットボールというスポーツを選手の立場からも劇的に進化させた人物の1人で、バスケットボールの歴史は発案者のジェームズ・ネイスミスジョージ・マイカンだけでもある程度語ることが出来る。そのマイカンをコミッショナーとして迎えたことはABAにとってはかなり重要なポイントだろう。

なお、このマイカンに関する逸話は別記事でまたいつか紹介するのでお楽しみに(・ω・)

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最後にABA在籍経験のある有名な選手を何人か紹介していこう。

 

1.Julius Erving

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NBAファンなら誰もが聞いたことがあるだろう『Dr.J』の愛称で知られるABA史上最高の選手。ABAのみならずバスケットボール界の発展にも大きく貢献した選手で、あのジョーダンやレブロンが憧れた"元祖スラムダンカー"である。ちなみにレブロンがMIA在籍時に#6のユニフォームだったのは、MIAでジョーダンが永久欠番になっており、#23を着用できない為にもう1人の憧れであるDr.Jになぞらえて#6を着用していたのである。

オールラウンダーで何でもこなしていたアービングだが、特筆すべきはやはりその滑空能力だろう。先述した通り、ABA最後のシーズンでは初開催のダンクコンテストでレーンアップを決め、ABA消滅後にNBAでプレイしてからも華麗な滑空で観客を魅了し、後に大スターとなるジョーダンやドミニク・ウィルキンスら多くのバスケットボールファンを虜にしていた。

芸術品と称される彼の圧倒的なジャンプ力は『時計を見て家に電話をかける時間がある』と言われていた。

そんな彼のバスケ界への貢献として大きいのは彼の性格だった。とにかく紳士的だった彼とは相反し当時のNBAは薬物問題が蔓延し、スター選手が薬物によってキャリアを崩すパターンは少なくなかった。しかしアービングはいつでもメディアに対して丁寧に対応し、試合後にはアリーナに残り続けファンのサインなどに対応し続けるなどファンやメディアのみならず選手からも尊敬されていたという。さらにメディアとの対応中に自チームの新人や無名の選手らも絡めて知名度を上げるのに一役買ったり、スランプに陥った選手に自信を取り戻させるべく自分の得点チャンスを犠牲にしてその選手にチャンスを与えるなど、かなりの人格者だった。そんな彼によってリーグの汚いイメージは徐々に払拭され、人気向上のきっかけとなった。

アービングの偉大な業績に関してはまた別記事でまたいつか...(・ω・)

 

2.David Thompson

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この選手に関しては私には知名度のレベルがよく分からない。もしかすると昔の選手に疎い方には初耳レベルかもしれない。彼もABAの歴史の中では一際輝いていたスター選手である...が、先ほど紹介した薬物問題が蔓延した時期の選手であり、まさに、その薬物によってキャリアを滅ぼした1人である。

"スカイウォーカー"と呼ばれた彼は193cmのSGながら『バックボードの上に置いたコインを取ることができた』という逸話を持つ選手で、垂直跳び122cmという記録でギネスブックにも掲載されている。

そんな彼のシグネチャースキルとも呼べる『アリウープ・レーン』をご存知だろうか?当時のNCAAはダンクを禁止していたのだが、このルールに対抗するべく編み出されたトンプソンにしか出来ない技で、チームメイトがリング周辺に投げたアリウープパスをトンプソンがキャッチし叩き込むのではなく、リングの中心に上手く落とすというものである。

つまりリングより上からリングの中心を狙ってボールを落とすのである。これはバックボードの上に手が届くトンプソンにしか出来ない技で、チームのオフェンスパターンとして取り入れられていた。

ちなみに禁止ながら1度だけ彼はダンクを大学時代に決めており、もちろん得点は無効となりコーチの指示で即交代となったが、観客は大盛り上がり、得点せずとも会場の雰囲気を一気に変えた。

そんなトンプソンもジョーダンを魅了した1人であり、ジョーダン自身が殿堂入りとなった際のプレゼンターにトンプソンを選んでいる。

トンプソンは当時のルーキーのプロスポーツ史上最高額契約を塗り替えており、ダンクコンテストではアービングのレーンアップに対抗して360°を決めるなど、華々しいキャリアを送っていた。

しかしNBAを侵食する薬物問題に取り込まれたのをきっかけにアルコール依存症にもかかるなど、一気にキャリアを崩し始めていた。練習の遅刻や欠席が増えながらもオールスターには選ばれていたが、その矢先に足首の靭帯を損傷。

シーズンのほとんどを欠場していた彼が薬物・アルコールにさらに取り込まれるのはやむを得なかった。

そして1983-1984シーズン中、アウェイ戦後に泥酔状態で階段を踏み外し左膝を故障。そこからコートに戻る日は2度と来なかった。

彼のキャリアは時代さえ違えばさらに輝いていたのかもしれない。

 

3.George Gervin

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表情を変えずに静かに、しかし心の内で闘志を燃やすことから『アイスマン』と呼ばれた名選手。ABA時代にジュリアス・アービングとチームメイトにもなったことのある彼はスパーズの歴史の中でも"提督"ロビンソンやダンカンと並んで非常に愛された選手である。フィンガーロールを得意とし、NBA史上4人しかいない得点王×4を達成した内の1人で殿堂入りも果たしている。SASのイメージが強いが引退前に1シーズンだけCHIでもプレイしている。

 

4.Moses Malone

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↑※右下に写っているフックシューターではありません

NBA史上屈指のタフガイとして知られる彼もABA経験のある選手の1人である。ABA経験を持つ最後のNBA選手として1995年までプレイしていた。

高校時代にはチームを牽引し50連勝を達成するなど名を知らしめると、高卒でABA入り。身長は208cmとセンターとしては高くないものの全盛期は他を圧倒する支配力を誇り、特にオフェンスリバウンドに関してはABA時代の2シーズン分の記録を除いても史上最多の通算6731本(キャリア平均5.1本)ととにかく強かった。ジュリアス・アービングと組んでいたPHI時代には『全勝優勝宣言』を行い、惜しくも1敗したものの圧倒的な強さで優勝している。

2015年にホテルにて意識不明の状態で発見され、永眠。60歳と早すぎる偉人の死去だった。

 

5.Rick Barry

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NCAA、ABA、NBAの全てで得点王となった唯一の選手で、とにかく得点力に関しては追随を許さない。201cmのSFとしては高いクイックネスを併せ持ち、加えてシュートのバリエーションも豊富で、フック・フェイダウェイ・セットシュートなどあらゆるシュートを左右どちらの手でも放つことができた。

しかし彼がファイナル平均36.3点で歴代1位なのは技術だけが理由では無い。バリーはとにかく逆境に強く、あるシーズンで地元ファンがPO進出すら期待していなかった状況からファイナルに進出。ファイナルの相手はリーグ内でダントツ首位の成績を残していたにも関わらず、スウィープで勝利。この1975年ファイナルの出来事は『NBAファイナル史上最大の番狂わせ』とされている。

ただ逆境に強い反面、あまりにも自己中心的で敵味方関係無く怒鳴り散らすことから『バリーを国連に送り込めば第三次世界大戦が起こる』とまで言われた。

ちなみにバリーと言えば下手投げフリースローが印象深いが、これはバリーが編み出したフォームというわけではなく、1940年代頃まではむしろ下手投げフリースローが主流だった。

 

いかがでしたか?

ABAについて少し詳しくなったあなたはまた少しNBAオタクに近付いたでしょう(・ω・)

これを言うと今までの話はなんだったのかとなるのですが、実はABAは現在も運営しています!

 

と言っても少し複雑なのだが...

今回の記事に書いたABAと同じ名前のリーグで、1999年に設立。NBA傘下のDリーグ(来季からはGリーグに改名)と似たような存在で、NBA入りの機会を窺う選手が多く在籍している。設立以降、着実にリーグを拡大されておりアメリカのみならずカナダやメキシコにもチームが存在し、現在84チームが加入している。

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なんとチーム数の多いこと...

ロゴを見ても分かる通り、それとなく名残りのある雰囲気にしているのが良いですね。

 

それにしてもやはり昔の勉強は良いですねぇ。歴史が深い。

特にジョージ・マイカンは星の数ほどエピソードがあるので、次かその次くらいに書きます(・ω・)

 

ということで今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

そして読破おめでとうございます(・ω・)

 

では、また──────

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"The Tidbits"

『The Tidbits』とは?

 

Tidbitsとは簡単に訳すと「ちょっとしたこと」と言った感じの単語で、要は豆知識です。

今回はNBAのレジェンド達の豆知識を少し紹介するだけの、

あまりにも無益な記事ですよ(・ω・)

 

1.Shaquille O'neal

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ユーモア溢れる性格とは裏腹にゴール下での支配力においては歴代最高クラスのセンターだったシャック。そんな彼の自宅に『シャックの親戚だ』と名乗って訪れる人が多数出現。しかしシャックは親戚を名乗る者が頻繁に訪れても追い返すことなく、留守中は自宅を開けっ放しの状態で大量の食料品を置いていたそうだ。

なんという器の大きさ...

 

さらに彼が大きいのはその器だけではない。バッシュのサイズも規格外である。

シャックの靴のサイズはなんと...

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41cm...!!!

シャックと同じスーパーマンの血が流れているドワイト・ハワードでも37cm、現役最高選手のレブロンが35cmである。

 

ちなみにそんなシャック、UFC 2010という格闘技のゲームで隠しキャラとして登場している。

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↑なんとなく強そう。

 

2.Larry Bird

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当時『白人の希望』と呼ばれた史上最高のSFの1人であるラリー・バード。

そんな彼と同じ名前を持つ有名な生物がいる。恐らくご存知の方は多いだろう。

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こちらがそのラリー・バードである。

確証を得られる記事が見当たらなかったのですが、僕の記憶ではTwitter創設者がバードのファンだったからそう名付けただけだとか。

現在はこの鳥の名前は改名されており『Twitterバード』となっている(そのまま過ぎる...)。

 

ちなみに2005年に強盗と殺人未遂で逮捕されたある男が懲役30年を言い渡された時に「懲役を33年にしてほしい」と申し出たという。理由は...

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皆さんなら分かりますよね(・ω・)

(ちなみにその懲役を3年増やして欲しいという希望は叶えられたらしい) 

3.Glenn Rivers

『グレン・リバースって誰?』と思った方が今いると思います。

しかし、そう思った方の80%以上は実は知っているはずです。顔を見れば『あ、この人知ってる!』となるはずです。

 

 

↓↓↓↓↓

 

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『この人ってドック・リバースじゃなかった?グレン?』となった方、確かにドック・リバースと呼ばれていますが残念。本名じゃないんです。

本名は『Glenn Anton Rivers』。

ドックというのは昔 リバースが「Dr.J(ジュリアス・アービング)」のTシャツをよく着て練習していたことからついた愛称なんです。

 マジック・ジョンソンといいネネといい何故そんな愛称のままで登録されるのか...笑

ちなみに今回の記事のレジェンドの中に並べて紹介しましたが、正直 選手としてはもちろんコーチとしてもそこまでレジェンドではないんですよね...

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さぁ今回の記事、ラストを飾るのは...

バスケ界の神様

Michael jordan !!!!

僕の記憶ではLeBlog初登場です。

 

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とにかく有名なマイケル・ジョーダン

バスケなんて全く知らないという人でさえ

ジョーダン=バスケ選手

ということだけは知っているだろう。

だが、神様と呼ばれる彼でさえ完璧ではなかった。ジョーダンにも批判されていた時期がある。

 

優勝したチームがホワイトハウスに招待されるのは皆さんご存知だろう。

ジョーダンも例外でなく優勝した際に招かれている。しかし、彼は行かなかった。当時の大統領だったブッシュには以前会ったことがあるという理由で断ったのだ。するとマスコミ達からは「礼儀を欠いている」と批判の声が続出した。

さらにジョーダンはゴルフとギャンブル好きでも有名。試合のある日でもゴルフも行っていたらしく、ギャンブル好きだった事もありゴルフで賭けをしていた事が報じられるとこれも批判を浴びている。

 

さらにギャンブルに関してはもっと大きな批判を浴びている。ただでさえ一般的な範囲を遥かに上回る巨額を賭けていたことで非難されていたジョーダンだが、彼のギャンブル相手の中には後に殺害されてしまった麻薬売人もいた。その売人の遺品からジョーダンの署名入り20万ドル小切手が発見されると大きなバッシングを食らった。

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そんな批判も食らってきたジョーダンだが、神様と呼ばれるまでに上り詰めた彼と言えばやはり「負けず嫌い」なその性格だろう。とにかく負けず嫌い。

趣味だったゴルフで負けてしまった時には、再戦を申し込む為に相手の家に夜中に押しかけるほどだ。

そんな彼を見たとあるスポーツ心理士はジョーダンの睡眠時間の短さと練習の熱量に「彼は狂乱状態にある」と思ったという。その心理士曰く一般的な有能選手はゾーンに入った経験があると『ゾーンに入りたい』という心理からもう1度その状態に到達するのは簡単ではないうえ、自らゾーン状態を維持することは出来ないという。しかしジョーダンは常にゾーンに近い精神状態で、完全なゾーンに入ると逆にその状態を自ら維持出来る超人的な能力を持っているらしい。

何とも恐ろしい...

 

ちなみに『MJ』という愛称で有名な彼は、もう1人の『MJ』と共演している。

『KING OF POP』と呼ばれるあのマイケル・ジャクソンである。

彼の『JAM』という曲でMVに出演しているのだ。

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音楽界とバスケ界のトップの共演、これは流石に豪華すぎる。

数年前のメッシとコービーが共演したあのCMのようなものだ。

 

Michael jordanに関しては他にも山ほどのエピソードがある。

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またいつか、気が向いた時に紹介したいと思っています...

NBA史上の中でもある意味飛び抜けてキャラが濃い選手であると僕は思っている。これほどカッコよすぎる選手は他にいないだろう。バスケへの愛情、勝利への執着心、意志の強さ...

そんな彼でさえ意外と批判を浴びていたのかと知って頂けたなら今回の記事にも若干の価値が生まれたのだろうか...笑

 

このTidbits記事、これもシリーズ化できたらなと思っております。

 

最後に。

 

今回の記事を書くに当たって、とある本より一部内容を含ませて頂いています。

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 スポーツ心理士のくだりはこの本から得た知識で書いています。700ページ近くある本ですが、オススメです。

まだ全然読み始めて間もないですが、オフシーズン中に読み終えたいなと思ってます。笑

 

 

どうでしたか?

今回はいつも以上に緩めの内容(&短め)な記事でしたが、知らない方にとっては楽しめたのではないでしょうか。

そもそもシャックやバードを知らないという方は少しNBAの勉強を(^^;

 

 

今回も読破おめでとうございます。

そして、最後まで読んで頂きありがとうございました。

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【号外】優勝を求めるKD

2011-2012シーズン、Game1を制し優勝まであと3勝にまで迫ったKD。

しかしここから4連敗で優勝を逃してしまったのだ。

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カンファレンスファイナルではSAS相手に最初の2戦を落とすもそこから怒涛の4連勝。その勢いをホームで見せつけたOKCだったが、試合毎にKDのプレイに対応し始めたLeBronが徐々にKDの歯車を狂わせていく。

さらにチームメイトのハーデンはファイナルを通して絶不調で5試合中3試合が一桁得点。

このシーズンはアシスト以外のスタッツ4部門でキャリアハイを叩き出しており、史上最年少の3年連続得点王となったKDを擁しても3KINGSを擁するMIAには勝てなかった。

あの3KINGSが今のNBAの風潮(昨季ファイナリストにキャリア全盛期のMVP級選手が加わるという事態)を作り出したのだと私は本気で思う。

私はLeBronを応援するファンの1人だが、できればCLEに居続けて欲しかった。しかし、LeBronが勝てる環境に身を置くことに対してどうしても喜びを感じる。それは恐らくKDファンも同じ心境だろう。自分の応援する選手が勝てる環境に移ることは余程極端で無い限り喜ぶはずだ。

増して僕がKDを擁護したくなるのは2012年ファイナルでLeBronを中心とした豪華なメンバーで圧勝しているからである。中でも僕は特にこの下の写真のシーンが鮮明に記憶に残っている。

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この当時は『細すぎる』『フィジカル面で弱い』と一部から叩かれながらも、長身と長めのウイングスパンを生かした得点力はリーグ随一。しかし思うように点を取れず、味方のサポートも乏しく、孤軍奮闘(ウエストブルックも奮闘していたがチームのリズムを乱すような暴走がとにかく多かった)していた彼の状況とこの悔しがる姿に『いつか優勝してほしい』と私は思うようになった。

 

この2011-2012シーズンが始まる前のオフ、LeBronとKDは"Hell week"と呼ぶワークアウトを行っていて、この当時恐らくリーグNo.1とNo.2であった2人がお互いの向上を求めて共に汗を流している。

MIAが優勝して終えたシーズン後にはオリンピックでLeBronと共にプレイし、そしてこのオフ中にも"Hell week"を行っている。

 

最近では取り沙汰されることはないがKDも『練習の虫』と呼ばれるほど熱心な選手の1人である。

今ではすっかりリーグ屈指の嫌われ者となってしまったが、LeBronもMIA移籍時には同様の状況であった。

今やLeBronの第2の相棒となったラブも、2011ファイナルでMIAがDALに負けた時には「MIAが負けて皆喜んでいる」とコメントしている。

自分がオールスター級であったとしても優勝候補にすらなれないチームに長く居ると、それほど心境に影響を与えるのだろう。

私もKD移籍時には『優勝候補のチームに移籍して優勝したらそれで満足か』と思っていたが、彼の過去を振り返ると多少なりとも彼の決断を理解できる。

そして優勝を経験し価値観に変化が生まれた時、OKCに帰還しウエストブルックと共に優勝したいという目標を掲げる日が来るかもしれない。

無論、私が今年勝ってほしいと思っているのはCLEだが(・ω・)

 

Let's Go Cleveland !!!!!

(and KD)

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Team History "GSW"

チームの歴史を紹介するLeBlogの新シリーズ第1弾は現在NBAの先頭に立つGSWです。最近NBAファンとなった方も、NBAならある程度知っているという方も、GSWを起源から現在までの流れを知ることで、また少し見る目が変わるのではないかと思います(^ ^)

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Golden State Warriorsは創設1946年、つまりNBA設立時から存在する11チームの1つである。

(正式には設立当初はNBAではなく、BAAというリーグだった)

創設時の本拠地はフィラデルフィア、その為 Philadelphia Warriorsだった。そしてWarriorsの由来は実はこのフィラデルフィアが関係している。

独立戦争の際にフィラデルフィアは重要な土地であり、戦争を戦った戦士達への敬意を込めて"Warriors"となったのである。

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Philadelphia Warriorsのロゴ

 

そしていよいよ始まったBAA最初のシーズン、11チームによる争いの末、頂点に立ったのはこのWarriorsである。

実はこの創設当時のWarriorsには、あまり知られていないがNBAの歴史を語る上で欠かせない人物が1人いる。

それがジョー・ファルクスである。

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ご存知だろうか?

殿堂入りも果たしている名選手で現役時代『ジャンピング・ジョー』と呼ばれていた彼は、当時まだセットシュート(地面に足をつけたままシュートを放つこと)が主流だった中で彼はジャンプシュートを使い得点を量産。この空中でシュートを打つ姿にファンだけでなく選手達にも衝撃を与え、ジャンプシュートが普及するキッカケとなった。

ここから少しの年月が経ち1956年。

※細かく書くとキリが無いうえこの時代の情報が少ない為に省略。

この時の中心選手がニール・ジョンストンという当時リーグNo.1センターとして後に殿堂入りしている選手と、もう1人がポール・アリジンという選手である。

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このアリジンがまた先ほどのファルクスと同じくジャンプシュートを先に取り入れていた選手なのだが、アリジンがジャンプシュートを使うキッカケがこれまたすごい。

高校生の時に監督から戦力外とされてしまい校内や教会などの小さな独立チームに複数所属してプレイしていた彼は時にダンスホールでプレイすることもあった。滑りやすいダンスホールでのセットシュートが非常に難しく危険だった為にジャンプして空中でシュートを打つようになる。そしてそのまま彼は会場がダンスホールで無くても試合中のシュートは全てジャンプシュートで打つようになる。こうして誰から教わったわけでも聞いたわけでもなく、独自にジャンプシュートを生み出したのだった。ちなみに大学時代には開花し得点を量産、とある試合では85点を記録したという。

そしてアリジンとジョンストンという強力な2人を擁したWarriorsは球団史上2度目となる優勝を果たす。

 

その優勝から3年後、カンザス大でその名を知らしめた怪物がNBAにドラフト入りを果たす。

Warriorsに指名された彼の名は

Wilt Chamberlain

あの伝説の巨人である。f:id:LBJ1107ryo:20170529201453j:image

と、ちょっとここでドラフトの豆知識。

実は当時のNBAには「地域指名」という制度があり、チーム本拠地から50マイル圏内の大学出身者を指名できるというものであった。チェンバレンはこの地域指名によりWarriorsに加入している。

しかしここで疑問が浮かぶ。

カンザス大というのはカンザス州にあり、Warriorsの地元フィラデルフィアペンシルベニア州。地元指名の条件はチーム本拠地から50マイル圏内であること。カンザス州からペンシルベニア州までは約1200マイル離れている。つまり地域指名するには1100マイル以上オーバーしているのだ。

が、ここで当時のWarriorsのオーナーであるエディー・ゴッドリーブは何とかしてチェンバレンを獲得したいという一心でチェンバレンフィラデルフィア出身であることを訴え強引に指名する。リーグもそれを認め、チェンバレンNBA歴史上唯一の『出身地を理由に地域指名された選手』となった。

ちなみにチェンバレンを指名する7年前、ゴッドリーブがWarriorsを買収した際の金額は25007ドル。そしてこのチェンバレンは新人ながら当時歴代最高金額の30000ドルで契約している。

これだけでも如何に彼が期待されていたかが伺えるだろう。しかしこの大きすぎる期待にチェンバレンは120%で応えるのだった。

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デビュー戦、いきなりの43点 28リバウンドを記録。シーズン中に50点超えを7回達成し、リーグ史上初のシーズン平均30点超えを果たした(チェンバレンのルーキーイヤーは平均37.6点で、それまではボブ・ペティットの平均29.2点)。

ルーキーイヤーにして得点王・リバウンド王・新人王・シーズンMVP・オールスターMVPの5冠を達成する。チームも前季の32勝から49勝と成績を伸ばし、チェンバレンの影響からかリーグ全体の1試合平均得点が108.2点だった前季から115.3点と大幅な伸びを見せている。

個人賞を新人にしてほとんど獲得したチェンバレンを擁するWarriorsだったが、POではビル・ラッセ率いるセルティックスに2勝4敗で敗退してしまう。

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そして翌年、Warriorsの大黒柱であるチェンバレンはまたしても得点王とリバウンドを獲得する。しかしPOではナショナルズ(現76ers)にスウィープされ敗退。

チェンバレンのデビューと入れ替えで引退しWarriorsのHCをしていたジョンストンだが、この時既にチェンバレンとの関係が悪化しており、翌シーズンにWarriorsは新HCとなるフランク・マクガイア(NCAA決勝でチェンバレン率いるカンザス大を破った時のノースカロライナ大のHC)を迎え入れる。

するとこのHCの指揮によりチェンバレンは自身の才能を最大限に発揮、シーズン平均50.4点 25.7リバウンドという桁違いの大記録を叩き出す(当然のように3年連続得点王&リバウンド王)。

POでも前季にスウィープという屈辱を受けたナショナルズ相手に3勝2敗と雪辱を晴らす。

しかしここで再びセルティックスが立ちはだかる。3連覇がかかっていたセルティックスとのシリーズは最終戦までもつれるも2点差で敗退。RSで毎試合50点を取るチェンバレンを擁しても優勝できなかったことに批判の声が続出、シーズンMVPを獲得したのもシーズン平均50.4点のチェンバレンではなく60勝を達成したセルティックスの大黒柱であるビル・ラッセルだった。

 

オフになるとチェンバレンを獲得して以降チェンバレンをチームの中心として扱い続けていたゴッドリーブオーナーがチームを売却。サンフランシスコの実業家の手に渡るとチームも本拠地をサンフランシスコに移動しサンフランシスコ・ウォリアーズに改名。しかし、この本拠地移動がチームを崩壊に導くこととなる。

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フィラデルフィアに家族がいるアリジンは引退、シーズン中にホームシックになったトム・ゴーラという選手はトレードを要求し、マクガイアHCは1年目にして解任。代わりにNBAでのHC経験の無いボブ・フィーリックが着任する。

チェンバレンは前季に劣らない素晴らしいスタッツを残し4年連続の得点王&リバウンド王となるもアリジン達が抜けたWarriorsはPOを逃してしまう。

するとオフには早速フィーリックHCを解任。代わりに迎え入れたアレックス・ハナムは選手兼監督として1958年に当時無敵と言われていたセルティックスを破って優勝した非常に優秀なHCだった。

チェンバレンにとってNBA入り以降ハナムHCほど優秀なHCに出会うのは初めてであり、これまでのHCと違いチェンバレンに物怖じすることなく意見を伝えることができるハナムHCはチェンバレンと度々口論しながらもプレイスタイルの変化を要求。徐々に変化を見せたチェンバレンはキャリアワーストの平均得点(キャリアワーストながら36.9点で得点王獲得)となるもアシスト数を大幅に伸ばした。

またこのシーズン、後々殿堂入りを果たすネイト・サーモンドが加入している。

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↑Nate Thurmond

百戦錬磨のハナムHC、優秀な新人サーモンド、プレイスタイルを変化させたチェンバレンが率いるWarriorsはPOに復帰、そのままファイナル進出を果たす。

しかし、このファイナルで立ち塞がるのはまたしてもセルティックスだった。

悲願の初優勝に挑んだチェンバレンだが1勝4敗で敗退。セルティックスはこの時点で5連覇を達成したのだった。

優勝を目前にしてまたしても阻まれたWarriorsは翌シーズン財政難となり、高額な給料を必要とするチェンバレンをついに手放す決意をする。チェンバレンシクサーズにトレードしたWarriorsは見返りとして3人の選手と15万ドルを手にした。

チェンバレンを失ったWarriorsは17勝63敗と成績を急降下させるもオフのドラフトでは2位指名でリック・バリーを獲得。ドラフト当時は度々乱闘を起こす気性の荒さに批判ばかりされていたバリーだが、ルーキーながらシーズン平均25.7点を記録しチームも35勝を記録。POこそ逃したものの、新人王となったバリーがチームの中心を担うWarriorsは新HCとなるビル・シャーマン(セルティックス黄金期を支えた選手の1人)の指揮の下その翌年にPOに出場。さらにチェンバレンの連続得点王回数を7で止めたのもバリーだった。

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↑FTが下手投げな事で有名なバリー

シーズン平均35.6点を記録したバリー率いるWarriorsの勢いは止まらず、見事にファイナル進出を決める。そしてこの年、長かったセルティックス王朝に終止符を打ったのがチェンバレン率いるシクサーズだった。Warriorsを大きく上回る68勝を記録していたシクサーズを相手にバリーは第3戦でファイナル歴代2位となる55点を記録する。シリーズ平均40.8点という活躍を見せるもファイナルは2勝4敗で優勝には手が届かなかった。

そしてオフとなる1967年、Warriorsにとって厄介な出来事が起きる。

NBAのライバルリーグとなるABAが誕生し、ABAはNBAの選手やファンを奪おうと試みる。

Warriorsにとって最悪の出来事はサンフランシスコ近郊のオークランドを本拠地とするオークランドオークスがバリーの引き抜きを画策したことだった。

オークスのオーナーは巨額の契約金に加え、バリーの大学時代の恩師をHCとしてオークスに迎える。Warriorsもオークスと同額の契約を提示するが、当時WarriorsのHCだったシャーマンとバリーの関係が悪化していたこともあってバリーはABAのオークスに移籍することを決断した。

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↑逆に今の時代にこんなロゴのチームがいて欲しい気もする

リーグ屈指の点取り屋を失ったWarriorsはここから思うように成績が伸びず、1969-1970シーズンにはついにPOを逃してしまう。

しかしそんなWarriorsに1972年、6年ぶりにバリーが帰還する。当時既に3Pラインを採用していたABAでプレイしていたこともあり、バリーは以前よりもシュートエリアを拡大させ、さらにパスセンスも向上させていたが、代わりに膝に爆弾を抱えていた。復帰年の1972-1973シーズンではキャリアワーストの平均22.9得点となったものの自己最高となる平均4.9アシストを記録。

翌年には47勝を記録したWarriorsが60勝をあげたカリーム・アブドゥル=ジャバー率いるバックスを破るアップセットを見せるも、2ndラウンドで1勝4敗で敗退。

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↑当時チェンバレン以来の衝撃を走らせたジャバー

その翌シーズンには主要スタッツの4部門で10位以内に入りオールNBA 1stチームに選出。しかしチームは前年より3勝少ない44勝でPOを逃してしまう。

 

するとここでWarriorsはこの状況を打破するべく大胆な行動に出る。

ドラフト入り以降チームを支え続けたネイト・サーモンドと前シーズンで全試合先発を務めていたカジー・ラッセルを放出、代わりに得たのは放出した選手に見合うほどの選手ではなく、Warriorsは成績を落とすだろうと予想された。

そんな中で始まった1974-1975シーズン、批判を覆すことに燃えるタイプであったバリーは30歳ながら絶頂期を迎え、平均得点リーグ2位 平均アシスト 6位に加え平均スティールとFT%でリーグ首位となる。48勝を記録したWarriorsはPO出場のみならずディビジョン1位を獲得し、見事に第1シードを獲得。当時のHCであるアットルスが導入した10人の選手をローテーションに組み込んだオフェンスによってチーム平均得点はリーグ1位(108.5点)を記録している。

POではカンファレンスファイナルこそ第7戦までもつれたものの見事にファイナル進出を決める。

しかし、このWarriorsの相手はリーグ60勝を記録したワシントン・ブレッツであった。ウェズ・アンセルドとエルヴィン・ヘイズを擁していたブレッツ相手にWarriorsはRSで1勝3敗と負け越しており、劣勢との声が大半であった。

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↑後にこの2人は殿堂入りを果たしている

 

さらにこのファイナルでは会場の都合上で通常フォーマット(2-2-1-1-1)方式ではなく、1-2-2-1-1という特殊な方式となった。これはホームコートアドバンテージを持つブレッツが初戦はどうしてもホームコートで行いたいという希望によるものだった。

ワシントンで行われた初戦、先発・ベンチ共に活躍したWarriorsが勝利。予想外な初戦を落とす事態となったブレッツはホームコートアドバンテージを奪われ、さらにここから2戦を敵地で落とし絶体絶命の危機に晒される。

そして3連敗でホームに戻ったブレッツは3試合で平均35点を取っていたバリーを抑えるべく1Qからハードファウルを仕掛ける。短気で乱闘を起こしがちなバリーもこれに対し激怒。しかしアットルスHCが咄嗟の判断でバリーの前に入り食ってかかるという『バリーの保護』に出る。これによりアットルスHCが退場処分となるが、これによりチームは奮起。

前半の14点ビハインドを跳ね返し見事に勝利、敗退が予想されていたWarriorsはあまりにも想定外なスウィープでの優勝を飾ったのだ。

バリー自身が『NBAファイナル史上最大のアップセット』と語るこのファイナルも含め、PO進出を疑われていたWarriorsがスウィープで優勝したことは誰にとっても予想外であった。

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そしてここでこのLeBlogにも予想外な事態が起きている。

長すぎる。長すぎるのだ。

約6000文字となったこの時点でまだ20年しか進んでいない。

1975年を今終えたのであと40年ほど歴史は残っている。

ここまで読み続けてくれている方、本当にありがとうございます。書いている価値があります。

 

ご安心を。ここからは少しペースを上げていきます。というより正確に言うと、ペースが上がるんです。

Warriorsは長い低迷期に突入するのですから...

 

優勝後である1975-1976シーズン、リーグ1位となる59勝という成績を収めたものの、カンファレンスファイナルで敗退。このシリーズ中にチームメイトとの口論があったバリーは戦犯として指摘され、批判の対象となる。

そして翌シーズンにバリーがチームを去って以降、チームは成績を上げることが出来ず、リーグの下位層もしくは中堅のあたりを彷徨い続ける。

そして迎えた1985年、後に名を馳せるクリス・マリンを7位指名。1988年にミッチ・リッチモンドを5位指名。1989年にティム・ハーダウェイを14位指名。

得点能力に長けていたこの3人はドン・ネルソンHCの指揮の下でWarriorsをリーグNo.1の得点力を持つチームに変化させる。そして当時有名だったラッパー「RUN-D.M.C.」と掛けて

RUN TMC』と呼ばれるようになった。

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しかしPOでは思うように結果を残せず、1991年のシーズン中にリッチモンドがトレードされ『RUN TMC』は解体される。95年にはネルソンHCもチームを離れる。

ここから低迷を続けたWarriorsはネルソン以降HCの交代を繰り返し、97年にPJ・カーリシモが就任。

しかしこのカーリシモは暴言を吐く癖があり、この時のチームのエースにして暴君のラトレル・スプリーウェルと衝突、そして起きたのがあの有名なスプリーウェルがカーリシモに行った首絞め事件である。

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これにより無期限停止処分を受けていたスプリーウェルはNYKへトレード。

 

恐らくここからはリアルタイムで見ていたファンの方も増え始めると思うので、さらに省略していきます...

 

1998年ドラフトにてアントワン・ジェイミソン、2001年ドラフトでジェイソン・リチャードソンとギルバート・アリーナスを獲得した。

しかし、アリーナスとリチャードソンは再建の中心として期待されていたものの移籍。そして2004年にはRUN-TMCの一角であったマリンが副社長に就任。トレードでバロン・デイビスを獲得するなど再建を目指していたがネルソンHCを解任以降1度もPOに辿り着けないWarriorsはネルソンHCを再び迎え入れる。

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するとネルソンHCの再就任初年度、13シーズンぶりにPO出場を果たす。

1stラウンドではDAL相手に7試合制導入以降初の第8シードが第1シードを破るアップセットを達成。

しかしこれ以降5シーズンに渡ってPOを逃し続ける。

だが、この5シーズン(2007-2012)の間こそまさに現GSWへの布石である。

 

09年ドラフトでは7位指名でステフィン・カリーを指名、さらに11年ドラフトの11位でクレイ・トンプソン。後にスプラッシュブラザーズとなる2人はここで入団している。

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そしてマーク・ジャクソンがHCに就任。

さらに12年ドラフトでは後に球団史上屈指の掘り出し物となるドレイモンド・グリーンを35位で指名。

そして2012-2013シーズンにPO復帰を果たしている。

今でこそ定着しているアウトサイド中心のオフェンスやファーストブレイクでの3Pだが、当時はまだ『アウトサイド主体では勝てない』という概念が存在しており、この概念を打ち破ったWarriorsの戦術はNBAの歴史に間違いなく残るだろう。

 

と長々と書いてきたWarriorsの歴史ですが、如何でしたか?

 2017/5/29現在 KDの加入よりただでさえ少なくなかった批判が更に増したGSWですが、過去を見て何か感じませんでしたか?

チェンバレンの時代、バリーの時代、RUN TMCの時代、そして現在のスプラッシュブラザーズ。

僕は前々からずっとWarriors=攻撃的な戦術の球団と勝手にイメージしています。笑

 

最近NBAを見始めた方にとっては馴染みの無い名前ばかりで読みづらい記事だったかも知れませんが、過去を知ることはすごく大切だと私は思っています。

もし、チェンバレンがWarriorsにいなかったら?ゴッドリーブがチェンバレンを強引に指名しなかったら?ゴッドリーブがチェンバレンをチームの中心として自由にプレイさせていなかったら?

1試合100得点の大記録も、シーズン平均50点超えも、無かったかもしれません。

すごく単純な考え方ですが、チェンバレンが黄金期をもたらさなかったら、今紹介してきた黄金期と低迷期の時期が入れ替わっていて、カリーはGSWではなく他のチームに指名されていたかもしれません。

今回の記事を始めに残り29チームの歴史も今後書きたいと考えています。

 

ということでLeBlog史上初の8000字を超えたこの記事を終えたいと思います。

最後まで読んでくださった方は本当にありがとうございます。

サーっとスクロールして今ここに急に辿り着いた方も一応ありがとうございます(・ω・)

 

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2003 NBA Draft

2003年6月26日 PM7:30

マディソンスクエアガーデンには夢の舞台に立つ機会を得た若者達が集まっていた。

今のNBAの顔ぶれと照らし合わせても錚々たるメンバーが集まっている03年ドラフト。

今回はその03年ドラフト組の中から私が独断と偏見でピックアップした選手達を指名順に紹介していこう。

 

1. LeBron James

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高卒でNBA入りして以降、進化し続ける現役最強のバスケットボールプレイヤー。

これ以上は不要だと思うので、紹介文は省略。

 

 

2.Darko Milicic

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最近NBAファンとなった方はご存知無いかもしれない。ある意味有名である意味マイナーな選手だからである。

ミリチッチは03年ドラフトでレブロンの次、つまり2位で指名されDETに入団。その年、1年目にして優勝を経験している選手である。

が、この優勝はミリチッチの貢献によるものではない。当時のDETは既にリーグ屈指の強豪で、前年ではカンファレンス決勝まで駒を進めている。好成績ながらトレードで高順位の指名権を獲得し、ミリチッチを2位指名したのだ。2位指名されたものの、層の厚いDETでは即戦力とする必要は無く、出場機会はほとんど与えられなかった。

その影響もあり当時の愛称は『The Human Victory Cigar』。

訳すと『彼が出場する時には観客は勝利のタバコを吸っている』。

つまりガベッジタイムでしか出られなかったのだ。

その事もあってか、1年目で優勝した際にラシード・ウォーレスの案でチーム関係者全員に配られたチャンピオンベルトをミリチッチは「自分は何も貢献していない」と返上している。

その後、DET→ORL→MENと移籍を続け、

2012年にはMENからNYK→MIN→BOSと移籍を繰り返した後にBOSから解雇。ここで彼のNBAキャリアは幕を閉じる。

そして約2年後、突然ミリチッチの名が話題になる。

母国のセルビアでプロのキックボクサーとして第2のキャリアを歩み始めたのだ。

 その約2年後、結局キックボクサーを引退して、土地を買って農家としてフルーツなどの栽培を行い始め現在に至る。

 

結局NBAでのキャリアは、

平均6点 4.2リバウンド と何とも2位指名にしては寂しいスタッツで終えてしまった。

ドラフト前には「ウィルト・チェンバレン並のスキルを持っている」と称されたミリチッチだったが、DETに指名されたのが彼にとっては不運だったのかもしれない。

 

3.Carmelo Anthony

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今では低迷しているNYKでポルジンギスと共に奮闘しているメロだが、03年組屈指のスコアラーであり、全盛期の破壊力はリーグトップクラスだった。

デビュー6試合目に30得点(当時 史上2番目に若い30点を記録した選手だった)、史上4人目となる月間新人賞の独占(ちなみにイーストではレブロンが独占)、週間MVPにも2度選出されるなど1年目から大活躍。平均得点はルーキー1位の21.0点を記録し、チーム成績も前年の17勝から43勝まで引き上げ、9年ぶりにPO進出。新人王こそ僅差でレブロンに譲ったものの『メロの方が相応しい』という声は少なくなかった。

1on1のスキルに関しては特に評価が高く、中でもジャブステップからのジャンプシュートはかなり高速な上にブレが無く、止めることは非常に困難である。

 

4.Chris Bosh

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MIA時代しか知らない方には衝撃的な写真かもしれませんが、TOR時代はチームの中心としてドレッドヘアでチームを引っ張っていたんですよ...(・ω・)

 

指名された当時のTORはあのヴィンス・カーターが所属していたものの、カーター自身がエースでありながらトレードを希望するほどチーム状況は悪く、ボッシュにかかる期待は大きかった。チームの都合上1年目は本来のPFではなくCとしてプレイし、平均11.5点 7.4リバウンドを記録。以降カーターが去ったチームを引っ張り続けるもチームは伸び悩み、MIAへ移籍している。

MIA加入以降はレブロンとウェイドの影に隠れていたが、2人が欠場した試合では30点を記録するなど、個人能力もかなり高い。またMIA時代のPOに故障でボッシュが離脱した際にはチームも急激にリズムが悪くなりオフェンスが停滞する場面が増えるなど、スタッツだけではない貢献度の高さを証明している。

ちなみにオールスター投票前にはファンに向けて自身に投票するように呼び掛ける動画をアップするなど、ユーモアセンスもある。

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5.Dwyane Wade

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"Flash"の名で知られる03年組屈指のスーパースター。指名されたMIAで大黒柱として長く活躍していたものの、契約交渉の問題で現在は地元であるCHIに在籍している。

SGながら192cmとやや低めだが、SGとは思えない強靭な体と変幻自在なクロスオーバーでゴールにアタックすることを得意とし、アウトサイドが苦手でありながら06年ファイナルでは平均34.6点を記録している。昔から膝に爆弾を抱えており、一般的な選手よりも選手生命は短いと言われている。

ちなみに有名な話だが、自分より早く指名されたミリチッチへの皮肉を込めて、オフにホテルの予約をとる際にはミリチッチの名前を使用している。

 

6.Chris Kaman

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あまり03年組のイメージは無いかもしれないが、実はウェイドの次に指名されている。当時低迷していたLACに入団し、ルーキーながらフル出場を果たしその内61試合が先発出場、平均22.5分と十分に存在感を示した。その後も2年目3年目と成績を伸ばし、 守備型の7フッターとして活躍を続けた。

ブロックやリバウンドを得意としていた彼だが徐々に得点力も向上、左右両手でシュートを放てるという器用さに加え、FT%もキャリアで74%とセンターにしては悪くない数字である。

キャリアで唯一オールスターに選ばれた09-10シーズンには34.3分の出場時間で18.5点 9.3リバウンド を記録している。

 

7.Kirk Hinrich

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大学時代はSGをしていただけありNBAでもコンボガードとして活躍している。

『キャプテン・カーク』という愛称の通り、チームリーダーとして司令塔を担うことが多い。

指名されたCHIで1年目にして平均35分の出場時間を貰い、12.0点 6.8アシストを記録。 メロ、ウェイド、ボッシュレブロンと並んでオールルーキー1stチームに選ばれている。また06-07シーズンにはオールディフェンス2ndにも選出されており、守備に対する評価も高い。

 

 

 

 

ここで、急に指名順位が7位から18位までとびますが、お気になさらずに(ピートルスやコリソンなど個性的な良いメンバーがいるものの、紹介し出すとキリがないんです)。

 

18.David West

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全盛期には地味ながらリーグ屈指のPFとして活躍した03年組の1人。屈強な体を駆使したポストプレイ専門かと思いきや、ハンドリング能力も高い上に正確なジャンパーも兼ね備えている。

実はオールスターにも2度選出された実力者だが、長く在籍したNOHとINDで1度も優勝できず、一昨季には優勝を求めてSASに在籍。そしてSASの選手としてGSWにPOで負けたのち、GSWに移籍している。

ところで上の写真、なぜウエストだけ2枚並べたか分かりますか?分からなかった方はまだまだ甘いですね(´・∀・`)

レブ郎トリックに掛かってしまっています。

左の選手、本当にウエストですか?

(多分ほとんどの方はすぐに気付いたと思いますが...)

 

21.Boris Diaw

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恐らく彼ほどポジションレスな選手は現在のNBAにはレブロン以外にいないのではないだろうか?バスケIQが非常に高く、チームに必要なものを見出しては確実にこなせる実力を持ち、移籍を繰り返しながらも行く先々で20分〜35分の出場時間を確保する『とにかく使いやすい選手』。しかし写真の通り、自分の体重管理(というよりコンディション管理自体)が苦手で、SAS在籍時にはチームから体重を一定以下に保ち続けることを条件に成功報酬を提示されていたほどである。

そんな彼だが、05-06シーズンにはPHXでPGをしていたナッシュが故障離脱するとディアウが代わりにPGも務めアシストを量産。結局その年のMIPを受賞するなど、とにかく様々な代役になれる選手である。

ちなみにフランス人であるディアウの母親もバスケ選手で、フランス最高のセンターと言われている。

 

27.Kendrick Perkis

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03年組の中で最も『Shaqtin' A fool』に登場しているであろう有名人。しかし、彼はただマヌケな選手というわけではない。高校最終年には平均27.5点 16.4リバウンド 7.8ブロックを記録し『ベビー・シャック』とまで呼ばれていたほどの選手である。

しかしNBA入り1年目は平均3.5分の出場時間に留まり、10試合の出場に終わってしまう。2年目も平均9.1分の出場ながら60試合に出場、タフなディフェンダーとして少しずつ知名度も上がっていく。

そしてKG、ピアース、アレンのBIG3結成年にはシーズンを通してスターターとして出場。以降も目立たないスタッツとは裏腹に確実に自らの仕事をこなし、08-09のPOではORLとの対戦でシーズン平均20.6点のD・ハワードをシリーズ平均16.4点に抑えるなど守備力を発揮していた。

一方でオフェンス力はほぼ皆無、ゴール下以外のシュートは基本的に打てず、守備に専念するタイプの選手である。

稀にドライブを仕掛ける場面も見られるが、彼が普段しないようなプレイをした時は大抵ファンブルとなってしまう。また、ミスした際に明らかにファウルが無かった場面でも審判に文句を言う場面が多く、お茶目な選手である。

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とりあえず1巡目で紹介を終えよう...

 

どうだっただろうか?

『この選手も03組だったんだ!』という選手もいただろう。こうやって改めて見直すとやはり歴代屈指の豊作だったことが分かる。

ちなみに03年組からオールスター選出経験のある選手は9人であり、03年組以降の各組からのオールスター選手は最高でも6人となっており、やはり03年組だけ少し差が開いている。

今や03年組のほとんどが引退寸前もしくは衰えが見え始めている選手が多く、ベテランの域に入っている。

しかし、レブロンだけは未だにリーグの頂点に君臨し続けている。ブログのタイトル通り私はレブロンファンであるが、贔屓目を差し引いても現役選手トップであるというのは間違いないだろう。

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ちなみにそのレブロンだが、実は多くの同年組選手とプレイしている。

例えば先ほど紹介したウェイド、ボッシュ、パーキンスがそうだ。

加えてダンティ・ジョーズ、モー・ウィリアムズ、ジェームズ・ジョーンズ、カイル・コーバーも03年組であり、レブロンとチームメイトになった経験がある(もしかしたらまだいるかもしれません、記憶に頼って書いたので...)。

 

03年組に関してはレブロンのドラフト年というだけで私は少し応援しているところがあるが、特にメロは優勝経験が無いだけに何とか引退までに優勝してほしいところである(現チームの状況は散々だが...)。

一部では『史上最高のオールラウンダー』と評される03年組最高にして現役最高でもあるLeBron Jamesが、少しでも長くNBAで輝き続けることを私は願っている...

 

最後の最後に...

最後まで読んで頂きありがとうございました。本当に暇すぎて時間の有り余る方は是非下記のリンクから動画をどうぞ。笑

2003 NBA Draft - YouTube

"The Big O"

Triple Doubleという記録、これはNBA選手にとって1試合達成するだけでも素晴らしい功績とされている。

そのことを再度確認しておきたい。

Triple Double(以下TD)は1シーズンにリーグ合計で117回起こるなんてのは通常ありえないことである(117回とは今季のリーグ合計達成回数)。

その要因の大半はウエストブルックである。今季はヨキッチやアンテトクンポなどハーデンやレブロン以外にも多数が達成しているが、やはりウエストブルックの印象が圧倒的に強い。ましてシーズン平均TDなんてのは現代においては有り得ない記録である。

ご存知の通りシーズン平均TDはNBA史上でオスカー・ロバートソンとラッセル・ウエストブルックの2人しか達成していない。

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恐らく今季からNBAを見始めた方もビル・ラッセルを知らなくてもオスカー・ロバートソンは知ってるだろう。

では、皆さんはどこまでオスカー・ロバートソンの偉大なる功績を知っているだろうか?時代が違う為に比較すべきではないものの、ロバートソンはNBA史上最高の選手を議題にして話し合えば名前を出されるほどの選手である。単にシーズン平均TDを達成したから偉大なのではない。それを皆さんに今回は紹介したいと思う。

 

1.バスケット選手となるまで

彼の生まれた時代は人種差別が強く、白人と黒人で住む地域が分かれていた時代である。インディアナポリスで幼少期を過ごした彼は、当時大半の子供が熱中していた野球をするだけの道具を揃えるお金も無く、果物かごを壁に吊り下げてテニスボールを布で巻いたものを投げ入れて遊んでいた。事実上これがバスケットボールのキャリアの始まりである。

やがて高校の進学を迎えるが、バスケができる高校を探す彼にとって当時は黒人の入学を拒む白人学校が多いうえにバスケができる体育館がある黒人学校が非常に少なく、クリスパス・アタックス高校という一択に絞られた。だが、このアタックス高でコーチを務めていたレイ・クロウに出会うことが彼にとっては大きな人生の転機だった。クロウは彼の身体能力に可能性を感じ、基礎から徹底指導した。そしてクロウにより大躍進を遂げたロバートソンは2年生にしてチームを州ベスト4まで導き、翌年には31勝1敗という圧倒的強さで州を制覇(黒人学校として初の快挙)。翌シーズンに入っても強さは変わらず、前シーズンから数えて45連勝を記録し、シーズン全勝+州連覇という偉業を達成。州のMr.バスケットボールに選ばれた彼だったが、それでも優勝記念パーティーを開こうとした際に街から追い出されるなど相変わらず差別を受けていた。

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↑彼が進学したシンシナティ大学

 

シンシナティ大学に進学以降も、3シーズン連続でNCAA得点王・最優秀選手賞・オールアメリカンに選ばれる。さらにMSGで行われたトーナメント大会では2年生で52点、3年生で62点を記録し、当時のカレッジバスケ界のトップに君臨していた。在学中79勝9敗で、2度ファイナル4にも進出するが優勝できず卒業を迎えた。

卒業後、オリンピックにアメリカ代表として出場。

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フォワードと登録されたロバートソンだったが実質PGとしてジェリー・ウエスト、ウォルト・ベラミー、ジェリー・ルーカスを含む12人のチームを牽引し平均42.4点差をつけて見事金メダルを獲得。ドリームチーム以前のチームとしては最高と言われている(12人中10人が後にNBA選手となる)。

 

2.世界最高の舞台へ

1960年にドラフト1位指名を受けてシンシナティ・ロイヤルズに入団。

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すると1年目にして平均30.5点 10.1リバウンド 9.7アシストを記録。平均9.7アシストは当時のNBAでは過去最高の数字となり、さらに平均30.5点もリーグ3位だった。当然オールスターにも選出(この後12年連続で選ばれ続ける)され23点14アシストでオールスターMVP獲得し、もちろん新人王に選ばれた。

さらにオールNBA1stチームにも選出(これも今後9年連続で選ばれ続ける)され、ルーキーにしてリーグトップレベルに到達したのであった。

 

3.伝説の1961-1962シーズン

ロバートソンと言えば、やはりシーズン平均TDだろう。先ほど紹介したルーキーシーズンの成績の時点でほぼTDに近い。実はシーズン平均TDを達成したのはこの翌年、つまり2年目である。

30.8点 12.5リバウンド 11.4アシストで、リーグ初となる平均アシストで2桁を記録し、チームをプレーオフに導く。

さらにプレーオフでも平均TDを記録したものの、敗退している。

(ちなみに彼はNBA入りから5シーズンの平均スタッツが30.4点 10.4リバウンド 10.6アシストとTDなのである)

彼がシーズン平均TDを達成したのは1961-1962シーズン。何か思い当たるシーズンではないだろうか?

あのウィルト・チェンバレンが伝説の1試合100得点 シーズン平均50.4点 25.7リバウンドを記録したシーズンである。

結局このシーズンはロバートソンはMVPに選ばれなかった。

しかし、チェンバレンもMVPではなかった。

では誰がMVPだったのか。

 

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当時チェンバレンと双璧を成した伝説のビッグマン、ビル・ラッセルである。

NBA初のRSでの60勝到達(60勝20敗)を記録したセルティックスを率いた彼は、シーズン平均18.9点 23.6リバウンドながらロバートソンとチェンバレンを抑えてMVPに輝いたのだ。

今思えばこの時から既に勝利への貢献度は個人スタッツよりもMVPを選出するうえで重視されていたのだろう。

毎試合50点を出していたチェンバレンとファイナルで対戦するも結局セルティックスが優勝し4連覇を達成したのであった。

 

4.ついに栄光へ

セルティックス王朝だったNBAだったがロバートソン率いるロイヤルズは1962-1963シーズン、5連覇を目指す最強セルティックスと対戦し第7戦で惜しくも敗退。

 そして翌シーズン、新HCの下でロイヤルズ史上過去最高の55勝を記録、ロバートソンはついにMVPを獲得した。

ちなみにこのロバートソンのMVPは60年代の中でチェンバレンラッセル以外の選手が受賞した唯一のMVPである。

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(逆に言うと10シーズン中9シーズンはこの2人でMVPを取り合ったのである)

しかし昨シーズンに5連覇を達成しているセルティックスにまたしても敗れ優勝には届かず。

MVPという個人賞としては最高の栄誉を浴びたものの、最高の舞台"ファイナル"に立つことは叶わなかった。

 

5.突然の移籍

以降のロバートソンも個人スタッツは凄まじく、ロイヤルズ所属中に6度のアシスト王となるなど、十分な成績だったが、プレーオフでは3年連続CSF敗退などチームは勝ち上がれず。

1967-1968シーズンにはついにプレーオフに出ることすら出来なかった。地元ファンも勝てないチームに応援の熱は薄れていく。

そして1969-1970シーズン、当時ロイヤルズのHCを務めていた伝説の選手ボブ・クージーがチームの為に選手として復帰、HC兼選手となった。しかし、チームは成績を上げることはできず、ついにこのシーズン終了後にバックスとの間でトレードが成立。

チームの中心として引っ張り続けたロバートソンが突然トレードされたのである。なぜ突然放出されたのかファンは困惑したが、クージーHCとの確執が原因とされており、確たる証拠は無かったもののクージーは自身の保持していた様々な記録を塗り替えるロバートソンに嫉妬していたと言われている。

 

6.伝説のデュオ誕生

ロバートソンのトレードから少し遡り1969年ドラフト。

NBAには新たな支配的プレイヤーが現れた。

大学で強烈な存在感を放ち、当然の如く1位指名されたルー・アルシンダーである。

ところで、皆さんはアルシンダーをご存知だろうか?

 

スラムダンクを読んだり、昔のNBAに興味がある方なら必ず知っているはずだ。なにしろNBA史上最高のセンターの1人とされており、必殺技"スカイフック"を武器に通算得点記録歴代1位となったあの選手なのだから。

 

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 そう、アルシンダーとは後々改名しカリーム・アブドゥル・ジャバーとなった彼である。

そして彼が指名されたのはバックスだった。

ルーキーながら圧倒的な活躍で前年から勝ち星を2倍にしたアルシンダー、オフにリーグトップクラスのPG ロバートソンを獲得したバックスはリーグ最高となる66勝を記録、当時NBA新記録となる20連勝を達成したうえ、ロバートソン自身ロイヤルズ時代は1度も立てなかった念願のファイナルの舞台に進出。

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ファイナルではウェス・アンセルド、ガス・ジョンソン率いるボルティモア・ブレッツと対戦。ファイナルまで2敗しかしていなかったバックスはファイナル4連勝でスウィープ。ロバートソンは移籍1年目にして優勝を成し遂げた。

 

7.そして終幕へ

 優勝した翌シーズン、既に12年目で33歳の彼は慢性的な足の故障をかかえることになった。さらに長年追い求めた優勝を手にしたこともあり引退を考えていた。だが、ここからバックスで3年間プレイ。彼が在籍した4年間バックスはディビジョン制覇し続け、3年連続60勝超えを果たすなどリーグトップクラスであり続けた。

そしてロバートソンにとってラストシーズンとなる1973-1974シーズン、彼にとって2度目のファイナル進出となる。

しかし、有終の美を飾るこのチャンスの前に立ちはだかったのはまたしてもセルティックスだった。

ビル・ラッセルは既に引退していたが、ジョン・ハブリチェックとデーブ・コーウェンスという後のレジェンド達が率いる緑の軍団とまたしても第7戦までもつれる大激戦の末に敗北。

ついに引退を決意し、ロバートソンはNBAを去った。

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8.彼の残した功績

ロバートソンのラストシーズン、バックスは59勝という好成績だった。しかしロバートソンが去った翌シーズンのバックスは38勝という成績の変化がロバートソンの影響力を物語っている。

 

ロバートソンがNBAに残した影響は大きい。

196cm 100kgという体格は当時の基準ではフォワードとなり、当たり強さに加えてスピードはガード並み、さらにバスケIQが非常に高かった為、いわゆる現在のレブロンにあたる選手である。

またレブロンマジック・ジョンソンのようなポイントフォワードというスタイルの先駆者で、当時のバスケの常識を大きく覆した。

また近年ではごく普通の技術であるヘッドフェイクやフェイダウェイシュートは当時はまだそれほど知られていない技で、ロバートソンが普及させた技術と言われている。

そんな彼のキャリアを振り返る中で必ずポイントとなるのが、先ほど紹介した『シーズン平均トリプルダブル』である。

が、実はこの記録を達成した当時はトリプルダブルという概念そのものが無かった。というのもそもそも平均アシストが2桁というのが当時では考えられない記録でロバートソンが初の2桁に乗せた張本人だからである。その為、ロバートソンがキャリアで181回もトリプルダブルを達成していたことなど認知されていなかったのである。

 

ところが1980年代にマジック・ジョンソンがトリプルダブルを連発。すると、トリプルダブルという記録を改めて調べ直すとロバートソンのとんでもない記録が発覚したのである。

また、カレッジバスケ界ではロバートソンの功績を讃えて栄誉ある賞の1つに「オスカー・ロバートソン・トロフィー」という名前が付けられている。

 

9.オスカー・ロバートソン訴訟

ロバートソンの残した偉大な功績の中でも特に大きいのがこの訴訟である。

詳しく語るとかなり難しい話になってくるので少し軽く(今回の記事が長すぎて疲れているというのが本音ですが)説明すると、

現在世界のあらゆるプロスポーツリーグよりもNBA選手の平均年棒が高いのは、ロバートソンが選手会長を務めていた時期に制定したフリーエージェント制の確立による、リーグに対する選手の立場の向上がキッカケだと言うことである。この制度の制定の為に6年間に及ぶ裁判を行ったロバートソンのおかげで年棒が上がり始めたのだ。

 

選手会長として、NBA選手として、大学生として、あらゆる立場からバスケに影響をもたらし、史上最高のオールラウンダーと呼ばれる彼の凄さが少しは伝わっただろうか。

最後に一言だけ、言いたい。

5000文字突破しているんです。

読み直しながら書き足して書き直してを繰り返す結果5000文字に達しているんです。

 

前回のバスケの起源の記事に比べて、少々読みづらくなっていると思いますが、

最後まで読んで頂き、

本当にありがとうございました。

そして、

読破おめでとうございます(・ω・)

 

最後に殿堂入り選手であるネイト・サーモンドがオスカー・ロバートソンの凄さを物語っている名言があるのでこれを今回は締めの言葉にさせて頂きたい。

 

オスカーは高く跳べなかったが、

それ以外は全てが

ジョーダンより上だ。