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レブ郎が自由に書くブログです。

NBAとの馴れ初め

今回はレブ郎とNBAの出会いを少し書いてみます。

恐らくこれまでで最も面白くない記事ですが、気晴らしに。

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フォロワーも増え、それなりに認知して頂けるようになった(と思い込んでいる)レブ郎ですが、NBAを見始めたのは2009-2010シーズンからです。わりと最近です。

何故過去の選手にもわりと詳しいのか。学業よりも勉強したからです(本当に)。笑

動画をただ見まくるとかではなく、本当に勉強していました。

 

では何故、NBAに興味を持ったのか。

バスケというスポーツそのものはもっと前からクラブで関わっていました。が、皆が口を揃えて『NBAはダンクばっかり』『凄すぎて勉強にならない』としか聞かなかったのです。しかしある時、ふとNHK BS1にチャンネルを変えるとなんとバスケットボールが!

当時既にバスケ部に入っていた弟と見ていました。

確か見始めたのは後半から。

"黄色緑色のチーム"

僕にとってはそうにしか見えなかったのです。得点のあたりに目をやると

「THE FINALS Game7」の文字が。

『あれ?決勝?』

この時はGame7が最終戦ということすら知らず、解説の話を聞いていてようやく察知。

今考えればすごく伝統的で、重要な対戦を見ていたんですよね。

ホームチームを応援する方が楽しそうなので黄色チームを応援。

ここからは少し曖昧な記憶の中で書きます。

 

見始めた時点から黄色チームはずっと少し点差を付けられていて、3Qの間ずっとビハインド状態だったものの付かず離れずで10点も開かないが同点にもならないといった感じ。4Qに入っても変わらず、残り6分か5分のあたりでようやく逆転。黄色チームの24番が少し連続で決めてリードすると大盛り上がり。

4Qは全体的に「ポー・ガソル」という面白い名前の選手がリバウンドと得点でチームを牽引していた印象が残っている。最後は3点差からブヤチッチがFTを沈めて勝利を決定的に。

 

黄色チームの優勝。

すると僕はこのシーンを見た瞬間、試合中には1度も感じなかったものを感じた。

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カッコよすぎた。試合ではそれほど活躍していなかった印象なのに(スタッツではゲームハイの得点だったが)。

何か他の選手にはない別格のカッコよさを感じた。

試合の面白さもNBAに興味を持った理由の一つだが、このシーンで一気にNBAに惹かれた。

NBAを本格的に見よう!』

そう思い、人生初購入のバスケ雑誌がこれ

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そして、ページを開く。

 

!!!!!!!

 

レブロン・ジェームズが移籍!?』

 

これが最初の感想。

 

そう、僕はあのファイナル第7戦を見る前からレブロンを知っている。そして既に唯一のお気に入り選手となっていた。

 

少し遡ること6年くらい(あまり覚えていない)

 

我が家に新ゲーム機が来た。

親戚からPSを貰った。

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そしてバスケ部としてバスケ馬鹿になっていた僕は親戚に誕生日プレゼントに『NBA パワーダンカーズ2』を貰った。

 

NBAが世界最高峰リーグということすら知らなかった僕はあるチームのロゴに一目惚れした。

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オリンピックの競技マークかと思うほどシンプルに作られたCleveland Cavaliersのロゴに一目惚れ。

そして頻繁にCLEを使っていた。

ここから何年か経った2008年(何故か何年かだけは覚えている)のある日、夜のニュース番組すぽるとで急にNBAが。

 

「さて、次はNBAです。レブロン・ジェームズが───」と聞こえ見ると、

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もうこの瞬間一気にカッコよさを感じた。「無冠の帝王」と称され、チームを背負って戦うこの選手がカッコよすぎた。そして所属チーム名が表示される。

『Cleveland Cavaliers !?』

あのロゴに一目惚れしたチームに、たった今一目惚れした選手が所属していた。

 

だから僕はレブロンを知っていた。

そしてこの雑誌を買ってレブロンの記事を見ることを少し楽しみにしていた。

『まだ無冠のままCavaliersを引っ張っているのか、もう優勝したのか』

 

以前見たすぽるとではチームを引っ張り続けるNBA界のKINGだと聞いていたので、そんな姿を楽しみにしていた。

が、記事で見たのは3KINGSという3人のエースが集結したチートのようなチーム。ボッシュもウェイドも知らなかったが、とりあえず紹介文を読む感じだと現役屈指の選手らしい。

 しかも同年ドラフトの上位3人とのこと。

雑誌のどこかには「優勝するのがどこか最初から分かっているシーズンは面白くない」的なことを誰かが言ったという記事。

 

『え、そんな感じなの?』

 

移籍までの経緯をその雑誌だけで把握した僕ですら、アンチが多数いるのだと何となく分かるような感じ。

ちなみに、この雑誌で他に印象的だったのが「Wオニール」という記事。

全盛期のような活躍が見れなくても、控えとして豪華という2人。

誰だかよく分からないが名前はジャーメイン・オニールとシャキール・オニール

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僕はギリギリのリアルタイムでシャックを見たのだ。

彼が凄く偉大な選手だと知ったのはもう少し後。

そしてもう一つ。

「スパーズはプレーオフ進出を逃すのか?」という記事。

そしてここに書かれていた言葉を未だに覚えている。

「スパーズがプレーオフに出れないというのは、ナッシュがダンクコンテストに出場するようなものだ」という、とある現地の方のコメント。

つまり、有り得ない。

僕は思った。

『そんな常勝軍団がいるのか』

 

ここから僕は勉強し始める。

当時ネットの環境に乏しい家庭だったので、ダンクシュートをなるべく毎月購入し、全記事を記憶できるぐらい読み返した。現に今でもしょうもない1文すら覚えている。

 

NBAがどういうリーグかすら知らなかった頃のパワーダンカーズ2で一目惚れしたCleveland Cavaliers。

そのCavaliersに所属する、ニュース番組で一目惚れしたLeBron James。

NBAというリーグの凄さを知ったPHX@ORLとDAL@ORL。

偶然見た試合で無知ながら感動させられたKobe Bryant。

僕のNBAとの馴れ初めはこんな奇遇の連続でした。

 

今見覚えのない項目があったでしょう。

 

NBAというリーグの凄さを知ったPHX@ORLとDAL@ORL』

これはすぽるとレブロンを見る前か後かすら覚えてないんですがBSで見たんです、RSの試合を。

 

ナッシュ、ハワード、ターコルー、ノビツキーあたりを見たのを覚えていますが、何が凄いのかと言うと簡単に説明すると2つ。

 

1つはPHX@ORLでのこと。

PHXのガードの誰かが速攻を仕掛けていて、ゴール側にハワード1人が待ち構えていた時のこと。

FTライン付近で構えるハワードを簡単に抜いたガードがレイアップをするとクリーンブロック。

しかし、驚いたのはここから。

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スローで日本語解説と共によく見ると「わざと突破させて後ろからのブロックを狙っていた」とのこと。

『え?NBA選手ってそんなこと出来るの?』という感じでした。

 

2つ目はDAL@ORLでのこと。

試合展開は忘れましたが、ノビツキーのポストフェイダウェイがとにかく印象に残っている。

『止められなさすぎる』

NBA素人だった僕ですらそう感じるほどエグかった。

しかしこれを見事に抑え込む選手が現れた。名前はターコルー。

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シュートモーションに入る直前のターンした瞬間にスティール。

続くポゼッションでもボールすらなかなか持たせない。さらにボールを持ってからのプレッシャーの掛け方が凄かった。

NBAのプレイってレベルがスゴイ』

 

この2試合はNBAに引き込まれるほどではなかったものの、すごく印象的でした。

 

 

最後に。

文中に紹介したパワーダンカーズ2を少し紹介。

96年発売のゲームでこんな感じ。

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綺麗な画像がネットで見つからなかった。

ディスクはこんな感じ(家にあるので、撮った)

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2Kもこんな感じのディスクにしてほしい...

 

 簡単に紹介すると

①国歌斉唱シーンがある

②レーンアップより長いダンクが稀に出来る

③ロッドマンの髪色が毎試合変わる

④ゴール下でダンクする時の滞空時間が異常

⑤ダンクする時の選手の声がデカすぎる

 

 プレイ画面↓

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①これはかなりスゴイでしょ?

2Kでは無いですよね(PS4のは知りませんが)

 

②ほとんど3Pラインあたりから踏み切ってドレクスラーよりも滑空してダンク決めるんです。誰がとかではなく、大抵の選手が。

 

③これは僕はロッドマンどころかNBAすら知らない頃にプレイしていた時はバグだと思ってました。

だって試合する度に緑や赤に変わるんですから。

 

④ダンクする時の浮く時間が固定なんですかね。滑空ダンクもゴール下でのワンハンドダンクもほぼ同じ時間空中にいます。

 

スラムダンクの赤木のように「フン!」って大きな声出します

 

 

是非買ってみて下さい!笑

 

しょうもない記事でしたが、最後まで読んで頂きありがとうございました!

 

チャンネル登録よろしく!

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(そんな機能ありません)

"Mr.Basketball"

皆さんは"Mr.Basketball"と呼ばれる人物をご存知だろうか。

本名はGeorge Mikan。彼は他のスーパースターと違い『今の時代にいれば』という仮定には全くハマらない。ジャバーのスカイフックや、ティム・ハーダウェイのキラークロスオーバーのように固有のスキルを持つわけでもなく、動画を見てもそれほど歴史的な選手とは思えないだろう。

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そんな彼が何故"Mr.Basketball"と呼ばれるのか...

それは現代の全ての選手の始祖だからである。

現代のルールを元に彼のプレイを見ると大したことは無いはずだ。

何故なら、彼を抑える為に作られたルールが複数存在するのだから。

当時まだ1つのスポーツとして成熟していなかったバスケットボールという競技の進化に貢献した人物である。

マイカンはバスケットボールの世界に『ビッグマンでも活躍できる』という概念を持ち込んだのだ。当時はビッグマン=鈍重という概念があり、そんな中で彼は『2mの俊敏なビッグマン』として衝撃をもたらした。つまり彼の登場はビッグマンの活躍の場を見出すのみならず、ガードが2m超えでも通用するという『巨人のスポーツ』という概念を持ち込んだのだ。

バスケットボール初代殿堂入りで、NBAオールタイムチームの全てに選出されたNBA史上最も偉大なビッグマン。

そんな彼のキャリアを今日は少し勉強...

 

※マイカンに関しての逸話はあまりにも多いので、今回は生い立ち等は少し簡略化しています。

ご了承下さい(・ω・)

 

1.苦渋の選択

1924年、後にバスケットボールの歴史を変える1人の少年が誕生した。祖母にピアノを教え込まれながらもガレージの壁にあるリングでバスケをしていた彼は13歳になる頃には既に180cmを越え、同級生達からはバカにされる日々を送っていた。そんな彼自身も長身を気にするあまり、少しでも低く見せるよう猫背にしていた。しかしそんな猫背も虚しく伸び続け、高校に入ると彼の身長はついに203cmに。

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重度の近視により眼鏡をかけてバスケを続けていた彼に対し、当時のバスケのコーチは「眼鏡を掛けていながらバスケットはできない」と言い放つ。これによりバスケを諦めて聖職者になることを考えたマイカンは神学校に転校、しかし卒業間際にして、バスケを諦め切ることは出来なかった。

家族に聖職者を諦めることを伝えず、密かに別のコーチの下で指導を受け、バスケの為に進学することを選択した。

ちなみにマイカンはこの後もずっと家族にバスケの夢を追っていることを告げないままで、家族が真実を知ることになったのは、新聞でバスケ選手として息子が活躍しているという記事を父親が目にした時だったという。

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※イメージ

 

2.唯一無二の選手へ

『内気で不器用な長身選手』当時のマイカンはこれに当てはまっていた。

しかし彼が進学したデポール大学で出会うレイ・マイヤーという23歳の新米コーチがマイカンを変え、そしてバスケの常識を変えたのだ。

マイカンに可能性を感じたマイヤーはコーチとしてのキャリア1年目をマイカンに捧げ、マイカンを他に類を見ない能力を持つ選手へと変化させた。同時にこの過程でマイカンはコンプレックスであった長身を徐々に誇りに思うようになっていく。そして内気だった彼が、自信溢れる攻撃的な選手へとなるのであった。

このマイカンの進化の過程において、現代でも語り継がれる有名な練習法が『マイカン・ドリル』である。ご存知の方も多いだろうが、簡単に説明するとゴール下で左右交互に打ち続けるものである。これを6週間朝から晩まで猛特訓したマイカンは左右両方の手からフックシュートを放つことが可能になった。

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↑現在でも世界各国で行われている有名な練習法

 

そしてこれまでの「長身選手は鈍重」というバスケの概念を打ち破らせる為、マイカンの潜在的な俊敏性を引き出すべくマイヤーが課した練習は意外なものが多かった。週末にはダンスホールに通わせて一番背の低い女性とペアを組ませ、ボクシングやバレエも習わせた。

新米コーチによる型破りなこの特訓の数々がマイカンに類を見ないフットワークを身に付けさせ、異色の選手へと進化させたのである。

 

3.衝撃的なデビュー

そして1942年の秋、ついにマイカンが大学での公式戦デビューを果たす。

マイカンは10得点を記録したが、マイカンが周囲に衝撃を与えたのはオフェンス面ではなくディフェンス面だった。

彼は相手がシュートを放とうとするタイミングに対し的確にジャンプし、リングをくぐろうとするボールをブロックしたのだ(当時ゴールテンディングは存在しなかった為、落ち始めたボールのブロックも可能だった)。

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この当時にゴールテンディングが無かったのはそんな高い位置のボールに触れることが出来る選手がいなかったからである。圧倒的な守備力を持つマイカンを擁したデポール大学は残りの4人にゾーンさせ、マイカンはひたすらゴール下でブロックする役割を担った。

翌シーズンにはオフェンス力も開花させたマイカンはオールアメリカンや最優秀選手に選出される。当時24秒バイオレーションや3秒バイオレーションが存在しなかった為、マイカンはじっくり時間を使いながら体を駆使して徐々にリングに近付き、シュートを放つという独特のスタイルだった。

マイカンの他にもう1人、213cmの長身でバスケ界を騒がせていた選手がいたこともあり、翌年にはついにゴールテンディングが設けられた。

 

4.無敵の存在へ

しかしもはやこのルールで弱体化するようなマイカンではなかった。平均23.9点をあげて全米得点ランキングで1位となると、あるトーナメントではマイカンはチーム全体の97点のうち53得点をあげた。さらに驚くのはこの試合で相手チームの総得点が53点、つまりマイカン1人で相手チーム全員分と同じ点を稼いだのだ。

結局マイカンはこのトーナメント中、平均40得点、3試合で計120点など桁外れな成績でトーナメントMVPに輝いた。

その翌年にも平均23.1得点で3年連続の得点王を達成、優勝こそ叶わなかったが全米に名を広めることとなった。

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5.プロの世界へ

1946年、マイカンは大学を卒業。

第二次世界大戦が集結した頃であり、アメリカ国内には戦地から帰った兵士達らを取り込むべくあらゆるスポーツリーグが創設される。バスケも例外でなく、NBAの前身となるBAAがこの年に誕生。BAA以外にも色々なリーグが存在していたが、マイカンのような全米に名の知れたスター選手は極めて貴重な存在だった。

マイカンはNBL(ナショナル・バスケットボール・リーグ)のシカゴ・アメリカン・ギアズというチームと契約する。ギアズと結んだ5年6万ドルという契約は当時のスポーツ選手史上最高額だった。f:id:LBJ1107ryo:20170901171706j:image

↑(シャツの画像しか無かった...)

するとマイカンは各リーグの上位チームなどを集めたトーナメントの5試合で計100得点を記録しトーナメントMVP、さらにシーズン平均16.1得点はNBLで1位、ギアズは優勝を果たすなど1年目から輝かしいキャリアを送った。

するとギアズのオーナーだったモーリス・ホワイトはマイカンに特別な可能性を感じギアズをNBLから脱退させる。そしてPBLA(プロフェッショナル・バスケットボール・リーグ・オブ・アメリカ)というNBLとは別の24チームからなるリーグを創設。24チームの全てのホームアリーナの所有権はギアズ所有という大胆なものだった。

 

しかし、そんなシステムが上手くいくはずもなくシーズン開幕前にPBLAは解体。ホワイトはNBLに再加入を提案したがNBLに拒否されてしまいギアズは解散を余儀なくされる。

同時にFAとなったマイカンはアメリカ中に存在するあらゆるバスケットチームから獲得を狙われるがNBLに残留。前季でリーグ最下位だったデトロイト・ジェムズというチームにドラフトによって加入することとなった。そのジェムズは創設1年でミネアポリスに移転すると共に改名。

マイカンが残りのキャリアを捧げることになるミネアポリスレイカーズが誕生した瞬間だった。

 

6.レイカーズ王朝

マイカンにとってミネアポリスは大学時代に訪れたことのある土地であり、良い印象を持っていない土地の1つだった。

とにかく寒い土地だからである。

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シベリアにドラフトされた』

レイカーズにドラフトで獲得されたことを知り、そんな冗談を言ったマイカンを何とかチームに留めようとレイカーズは必死の補強を行う。

しかし乗り気では無かったマイカンは弁護士を連れてレイカーズの代表者と交渉するも、3時間の議論の末、納得がいかず空港へ向かう。しかし既に帰りの最終便は飛び立った後であり、ミネアポリスに残らざるを得なかった。その後、翌朝まで粘ったレイカーズに渋々応じることとなった。

こうしてマイカンと何とか契約を果たしたレイカーズだったが、強力な補強を果たしていたこともありシーズンでは他を圧倒。シーズン得点王のマイカン率いるレイカーズはリーグ首位の座につき、POでも8勝2敗という成績で優勝を果たした。

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この頃、BAA(現在のNBA)によるリーグ統合の計画が進み、大都市に本拠地を置くNBLの4チームを吸収することとなったが、その1つがレイカーズだった。

こうして、マイカンのNBA(BAA)でのキャリアがレイカーズと共にスタートしたのだった。

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NBLでは超一流選手だったマイカンはBAAでもその能力の高さを証明する。

平均28.3得点で得点王に輝き、オールBAA1stチームに選出。POでは1stラウンドでシカゴ・スタッグスと対戦するも全勝(ちなみにこのスタッグスにはマイカンの実弟 エド・マイカンが所属していた)。

次のラウンドではNBL時代からライバル関係にあったロチェスター・ロイヤルズと対戦するもこれも全勝。

ファイナルでは伝説のHC レッド・アワーバックが指揮を執るキャピタルズとの対戦だったが第1戦で42点、第3戦で35点を記録したマイカンの活躍もあり3連勝。しかしこの第3戦で敵選手との衝突によりマイカンの手首が大きく腫れ上がる事態に。ギプスでガチガチに固めた状態で第4戦に出場したマイカンは27点を記録するも敗北。続く第5戦でも22点の成績が実らず連敗を喫する。しかし第6戦でキャピタルズをシリーズ最少の56点に抑えるとマイカンはゲームハイの29点を取り見事勝利。PO平均30.3点のマイカン率いるレイカーズNBLとBAAの2つのリーグを跨いで連覇を達成したのだった。

そしてこのオフの1949年、NBLはついに消滅。

NBLから新たに6チームを吸収したBAAは現在まで続くNBAというリーグ名称に改名する。

 

一方レイカーズはこの年のドラフトで獲得したスレーター・マーティンとヴァーン・ミッケルセンという2人の選手に加えて、NBL時代から所属していたジム・ポラードとマイカンの4人はレイカーズ王朝の中心選手となった。ちなみにマイカンを含め上記4人は全員殿堂入りを果たしている。

 

7.NBA元祖スーパースター

迎えたNBA最初のシーズン、マイカンは平均27.4点で得点王とオールNBA1stチームに選出。ライバルのロイヤルズと同率だったもののタイブレークを獲得し、レギュラーシーズンを1位通過。

続くPOではファイナルまで無敗で到達。ファイナルではマイカンに並ぶ殿堂入り選手のドルフ・シェイズを擁するシラキュース・ナショナルズとの対戦だったが、第1戦では37点を記録したマイカンに加えレイカーズのボブ・ハリソンが12m離れた位置(現在NBAの3Pラインの距離が7.2m)から逆転ブザービーターを沈めるという劇的な勝利を果たす。

続く第2戦では敗北するも、シリーズ平均32.2点のマイカンの活躍により4勝2敗でNBL・BAA・NBAと3年連続異なるリーグで優勝という偉業を達成。マイカンはファイナルの6試合全てでゲームハイの得点を達成していた(優勝を決めた第6戦では40点)。

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↑ドルフ・シェイズ

 

黄金時代の幕開けとなったレイカーズに対してNBAは早くも経営難に陥り所属チームが17から11に減少。そんな影を他所にマイカンは3年連続得点王を達成。加えてこの年からスタッツとして記録が始まったリバウンドではシェイズに次ぐリーグ2位の好記録。さらにシーズン中に投票された「半世紀における最も偉大なバスケットボール選手」でマイカンが選ばれることとなる。

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しかしそんなマイカンはシーズン半ばにして足を骨折。回復することなくPOに突入してしまうこととなってしまう。

ディビジョンファイナルで敗退してしまいNBAでの3連覇の夢が消え去ったレイカーズだが、足を引きずりながらもインサイドを支配しPO平均24.0点を記録したマイカンはもはや抑えようのない選手となっていた。

しかし翌シーズン、マイカンにデビュー以来最大の"敵"が現れることになる。

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8."マイカン・ルール"

1951-1952シーズン、 NBAはゴール下の制限区域を6フィートから12フィートに拡大する。この区域拡大を特に主張し続けていたのは当時NYKのHCだったジョー・ラブチックだった。マイカンは奇遇にもゴールから12フィート程度離れた位置でのプレイを得意としており、この区域拡大によってプレイしづらくなるのは明らかだった。さらに奇遇なことにラブチックはマイカンをかなり敵対視していたという。

そう、これは明らかにマイカンを狙ったルール改正だった。当時制限区域の2倍の距離で自由自在に点を取るマイカンをルールで抑えようとしたのである。

そしてこのルール改正は『マイカン・ルール』と呼ばれ、餌食となったマイカンはBAA加入以来最低の平均得点(といっても23.8点だが)を記録し、FG%も前季の42.8%から38.5%に落としていた。これによりキャリア4年目で初めて得点王を逃すが、平均リバウンドは13.5でリーグトップとなった。(リーグトップだがリバウンド王ではなかった。というのもこの時はシーズン通算の本数で決まるので、欠場数が多いほど不利なのである)

また、2OTに突入したロイヤルズとの試合で当時歴代2位となる61得点を記録。『マイカン・ルール』によって苦境に立たされるかと思われたレイカーズだったが、ルール改正という最大の試練を乗り越えたマイカンのおかげでファイナルに無事到達。

この年のファイナルの相手はNBA史上初の黒人選手であるナサニエル・クリフトン擁するNYKだった。

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このシリーズは第7戦まで縺れるが、他の予定などでほとんどの試合でホームアリーナが使用出来なかったという非常に珍しいシリーズとなった。そして皮肉にも、リーグ全体を巻き込むルール改正という手段でマイカンに対抗したNYKだが、マイカン率いるレイカーズに敗北する結果となった。

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9.史上初の3連覇へ

翌年、平均14.1リバウンドだったマイカンはシーズン通算で1007リバウンドを記録、リーグ史上初のシーズン通算1000リバウンドを達成という偉業と共にキャリア初のリバウンド王となった。その一方で平均得点はさらに下降し20.6点(それでもリーグ2位)となった。前季の制限区域拡大に加えて、このシーズンはマイカンへの対策として良いポジションでボールを持たれた場合はすぐにファウルをしていたからである。これに対抗すべくマイカンはアウトサイドシュートの習得に励むのだが、これが思わぬ落とし穴だった。

リーグ1位だったレイカーズは順当にファイナル進出、前年でも対戦しているNYKとのカードとなったが、いきなり初戦を落としてしまいホームコートアドバンテージを失う。第2戦ではなんとか勝利を収めたものの、レイカーズは明らかにギリギリの状態だった。

そんなレイカーズのHC クンドラはマイカンが本来のプレイを発揮していないと判断し大学時代のマイカンの恩師 マイヤーに声を掛ける。ベンチから試合を眺めていたマイヤーは不慣れなジャンプシュートを繰り返すマイカンに対しハーフタイム中に激怒。大学時代に磨き上げたフックシュートを打つよう指示する。

すると後半、マイカンは普段のプレイを取り戻し支配力を発揮。

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以降3試合連続でNYKのホームゲームだったが本来の姿に戻ったマイカンの前にNYKはなす術なくホーム戦3連敗。

レイカーズは見事連覇を果たしたのだった。

翌シーズン、マイカンはリバウンドでは14.3リバウンドと実力を発揮していたが、慢性的な膝の痛みが影響し、ついにキャリア初の平均得点で20点割れ(18.1点)となる。レイカーズは9位指名でセンターのクライド・ラブレット(後に殿堂入り)を獲得し、マイカンの補佐を務めた。ラブレットの助けもありレイカーズは2年連続リーグ首位。POでも順風満帆だったレイカーズはファイナルに進出。ナショナルズとのファイナルでは初戦を制したレイカーズをきっかけに、交互に勝利。お互いに連敗することなく 最後まで縺れ、第7戦でレイカーズが7点差で勝利し、史上初の3連覇を達成する。

6年間を通してレイカーズは5回優勝、6年間で唯一レイカーズを阻止したのはロイヤルズだが、マイカンを抑え込んだのはむしろロイヤルズの選手ではなくマイカン自身の足の骨折だった。

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10."ショットクロック"

翌年、NBAにバスケットそのものを大きく変えるルールが制定される。ショットクロック(24秒ルール)が導入されたのである。このきっかけは遡ること1950年、レイカーズと対戦したピストンズがマイカンへの対抗策として超ローペースゲームを行った試合でのことである。レイカーズに攻撃権が移る回数を限りなく減らすべくピストンズはボールを保持し続けた。ボールポゼッションの移り変わりを減らすことでマイカンのリバウンドも減らすことができ、1Q12分×4Qの48分をプレイして18-19という驚愕のロースコアでピストンズ勝利

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※FTW= フォート・ウェイン・ピストンズ

MNL=ミネアポリスレイカーズ

 

しかし、試合の大半がボール保持となるこのスタイルが観客にウケるはずもなく、観客からは避難が殺到。しかしそれでもマイカンへの対策としては非常に有効であったため、リーグ全体にこの戦術が浸透してしまい、各オーナー達は危機感を感じていた。

つまり導入こそ4年後だったものの、最初のきっかけは「無敵過ぎたマイカン」だったのである。ちなみにこのロースコアゲームでもレイカーズの18点の内15点がマイカン、チーム全体のFG%は83.3%を記録し、今後も破られないであろう記録となっている。

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11.限界

ショットクロック導入により試合のペースが大幅に早まることで自分にとって厳しいと考えたマイカンはトレーニングキャンプ3日前に引退を決断。『家族のそばに居たい。バスケット以外の分野に進む時が来た』と会見で話していたが、引退のもう1つの大きな理由は故障である。マイカンの足は計10箇所に骨折、縫合箇所は16箇所に及んでおり、早いペースでのゲームとなる新たなシーズンをこなせる体ではなかった。

マイカンを失ったレイカーズは低迷。ラブレットがチームを牽引するもPOで無念の敗退。

1955-1956シーズンには希望の光を求めたレイカーズがマイカンに復帰を志願。チームの期待に応えマイカンは復帰を果たす。1年以上リーグから離れていたマイカンだが、37試合に出場して平均10.5点 8.3リバウンドを記録するもチームは負け越した。POでは新たなリーグの顔 ボブ・ペティット率いるホークスに敗れ、シーズン終了後にマイカンは改めて引退を表明。

NBL、BAA、NBAの3つを合わせての通算11764得点は当時歴代最高記録だった。

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12.第2のキャリア

引退後すぐにマイカンは議員選挙に出馬、大統領からも支援されるが惜しくも落選。

現役時代からオフシーズンを利用して大学に通っていたおかげで法学の学位を取得していたマイカンは法律専門家を目指すも挫折。半年ほど定職に就けず、かつての球団の英雄は経済難に直面した。

1958年、レイカーズGMとHCを兼任していたクンビラがマイカンにHCの座に就くよう声を掛ける。

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しかしマイカンが指揮したレイカーズは勝率23%と低迷、球団史上最低の記録を更新してしまう。この結果を受け解雇されたマイカンはもう一度法律専門家の道を目指し、不動産関連の法律業に就きようやく成功を収める。

 

 

13.ABAコミッショナーとその後

1967年、安定した生活を取り戻したマイカンにバスケットボールに再び関わる機会が訪れる。この年にNBAのライバルリーグとして誕生したABAの初代コミッショナーとして声を掛けられたのだ。このABAに関しては以前記事に書いているので、マイカンに関する点のみここに記述しよう。

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ABA自体はわずか9年で幕を閉じることとなったのだが、マイカンがNBAも含めたバスケ業界にもたらした功績は大きく分けて2つある。その1つが3Pシュートである。NBAに対抗すべくエンターテイメント性を求めたABAがマイカン考案のもと始めたもので、NBAにも後に取り入れられることとなった。そしてもう1つがABAの象徴とも言える赤・白・青の3色を使ったボールである。

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カラーテレビが普及し始めたことで見栄えが良いとの声があったが、マイカン曰く星条旗をモチーフにすることで「愛国的」であることが理由だったという。

1969年、2年務めたコミッショナーを辞任し法律業に再び専念。

マイカンは法律に関する知識を活かしてNBA選手の権利擁護運動を始める。

そしてこの後、マイカンはまたしても大きな功績を残す。

少し戻って1960年、ミネアポリスレイカーズは現在と同じロサンゼルスに移転。

以降のミネソタ州ミネアポリスにはABAのチームが2つ存在していたが、いずれも1年で解体。ミネソタ州に拠点を置くチームは長らく存在しなかった。

そんな状況にマイカンを中心とした団体が、経営難により売却を検討するチームらにミネアポリス移転を促すも失敗。一方、ミネアポリスの実業家達もプロバスケチーム誕生を計画し始めたのである。そしてマイカンを中心とした団体と実業家達が協力し、1988年にミネソタ・ティンバーウルブズが結成された。

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 そしてマイカンに最期の時が近づく。

 

14.最期の戦い

腎疾患と糖尿病を抱えていたマイカンはやむを得ず右足を切断。人工透析も行っていたマイカンだが、医療保険はカットされてしまう。そんなマイカンは1965年(この年からNBA選手の年棒が爆発的に跳ね上がった)以前の選手達に支給される年金の低さ(月に1700ドル)を指摘し、法廷で争っていた。週に3回の人工透析を行いつつ法廷で戦い続けるも、糖尿病の合併症により容態が悪化。

2005年6月、創成後のバスケットボールに多大な影響を与えた偉人は80年の人生に幕を下ろした。

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銅像が設立された際の写真

多くの人々に悼まれたマイカンの死は、晩年マイカンが戦い続けていた法廷にも注目を集めるきっかけとなる。解説者や専門家達は『今 大金を受け取っている現役の選手達は1965年以前の選手達の所得を保障する為に結集するべきだ』と主張。当時のスター選手の1人シャキール・オニールは『マイカンがいなければ私はいなかったはずだ』とあらゆる選手達の祖先であるマイカンの功績を讃えるコメントと共に、マイカンの葬儀費用を自分が支払うと申し出た。

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その年のプレーオフ、シャックが所属するMIAとDETの試合前にはマイカンの死を悼むべく1分間の黙祷が捧げられている。

 

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。お疲れ様です。

そして、読破おめでとうございます。笑

ここまでに書いたマイカンの功績を覚えていますか?

もはや多過ぎて1人の選手とは思えないほどでしたね(・ω・)

勿体無いくらいですが、ザッともう一度羅列してみましょう。

 

①前代未聞、「動けるセンター」というスター選手になる

②ビッグマン優勢の時代を作り出す

③大学時代、リングをくぐる直前のシュートをことごとくブロックし過ぎてゴールデンディング制定

④マイカンがゴール近辺を支配し過ぎて制限区域拡大(マイカン・ルール)

⑤マイカンを抑える為に考案されたロースコア戦術を阻止すべくショットクロック導入

⑥運営側の立場として、バスケをより面白くするべく3Pライン導入

⑦現在も3Pコンテストのマネーボールとして使用される3色ボールをABAで採用

ミネソタ・ティンバーウルブズ結成の中心人物になる

⑨大学時代に行っていた練習法が『マイカン・ドリル』として現在でも世界中で行われている

 

少し面白おかしく適当に書きましたが、選手としても運営側としてもルールを変えまくったマイカンはもはや創世神です。

当時まだスポーツとして成熟していなかったバスケットボールを次のレベルへ引き上げたのは間違いなくマイカンである。

リーグも当時唯一のスーパースターだったマイカンをリーグ拡大に大いに利用しており、1949年のNYKでの試合ではマディソン・スクエア・ガーデン

【 G.Mikan vs KNICKS 

という看板が掲げられ、マイカンのチームメイトは「俺達は出場しなくていいんじゃないか」とボイコットしようとすることさえあった。

そんな唯一のスーパースターをメディアが放っておくはずもなく、アウェイの試合の時にはマイカンはチームメイトより1日早く現地入りし、インタビューをこなすほどだった。

 

はい、1万字突破です。笑

生活の空いた時間を使っていたこともあって、半月以上かけて書きました。

 

ですが、もう少し。

最後に蛇足を。

先述の通りマイカンの弟のエド・マイカンもNBA入りしており、加えて息子のラリー・マイカンも1年ではあるもののCLEに所属していたんです。

まさにバスケ一家

そして本当の最後に。

見た目通り、オフコートでは穏やかな巨人だったが、オンコートではセンターということもあり激しいプレイスタイルで、当時のリーグで最もファウルが多い選手だった。プレーオフ中でも6ファウルを犯している試合は少なくない。

 

きっとマイカンほどルール改正の被害を受けた選手はいないだろう。それでもなお支配力を誇示し続けた彼は、真のスーパースターである。

そしてレブ郎として、1人のバスケットファンとして、マイカンに一言伝えたい。

 

ビッグマンの時代をありがとう。

僕が愛するユーイング、ジャバー、オラジュワン、シャックら全てのセンター達の祖先である貴方がいたからこそ、バスケットボールが世界中に広がったのかもしれない。   by レブ郎

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本当の最後に。

豪華な画像を1枚載せて、無理矢理幕引きさせて頂きます。

ありがとうございました。

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コーヒー片手に是非。

今回はほんのちょこっとの気軽に読めるような、何でもないような話を少しずつ摘んで集めた記事です。

あなたが左手に持つそのコーヒーを飲み終える頃には記事も読み終えているはず(・ω・)/☕

 

① Kevin Durant

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近年急激にアンチを増やした彼は07年ドラフトにて2位指名。1位はあのオデンで、03年以来の豊作と言われたこの07年。NIKEは2位のデュラントに対して7年6000万ドルという巨額で契約。新人としてはレブロンに次ぐ歴代2位の高額契約だった(歴代1位のレブロンは7年9000万ドル)。

 

2.John Stockton

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史上最高のPGを語る上で欠かせない人物の1人だが、学生時代は意外にも無名選手だった。現在 八村 塁が在籍するゴンザガ大出身の彼は4年生の時に平均20.9点 7.2アシストを記録。一部の人からは実力を認められていたこともあり、オリンピックの代表選考会に呼ばれるも落選。その後のドラフトでは『自分が呼ばれるわけがない』とドラフトの様子をTV中継で見ていたという。しかし自宅で過ごすストックトンが16位でUTAから指名され本人はかなり驚いたという。

ちなみに、堅実なプレイと落ち着いた容姿からスポーツ選手の鑑のように思われがちだが、実はかなりのダーティープレイヤーであのロッドマンが『リーグで最も汚いガード』と言っているほどである。

 

3.Clyde Drexler

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『クライド・ザ・グライド』と呼ばれたNBA史上屈指のダンカー。『50人の偉大な選手』にも選ばれている彼だがキャリアの大半を過ごしたPORで1度も優勝していない。そんな彼がキャリアで唯一優勝したのがHORでオラジュワンと手を組んだ1995年。この事からキャリア末期に強豪に移籍して優勝することを『ドレクスラー・シンドローム』と呼ぶことがある。

 

4.Jason Kidd

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現在MILでHCを務める彼は歴代屈指の司令塔であり、人気も高く全てのプレイを卒なくこなしトリプルダブルを達成していたことから『Mr.トリプルダブル』と呼ばれていた。

3P成功数では歴代8位を記録しており、守備でもオールディフェンシブに選ばれているが、実はNBA入り直後はジャンプシュートが苦手でルビオのような存在だった。この事から彼の愛称は『ason Kidd』となった。ジャンプシュートの『J』が無いという意味である。

 

5.Jamal Crawford

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今オフにMINへの移籍を選択した彼は6thマンとして起爆剤の役割を果たすスコアラーである。キャリア平均は15.3点で決して高くはないが、これは不安定故の平均点で、爆発力に関しては現在でも相手にとって脅威である。しかし移籍が多く、現在のMINでついに7チーム目となる。また、彼の持つNBA記録は少し特殊で、4ポイントプレイ(つまり3Pを沈めつつファウルを貰う)の成功数で歴代1位、さらに様々なチームで50点以上を記録してきたことから「在籍した3チームで50点を記録」した唯一の選手となっている。チームのエースではなく、爆発力を秘めた6thマンのスコアラーだからこその記録である。

 

以上、ちょっとした豆知識でした。

明日からのお仕事に是非役立てばと思っています(・ω・)

 

 

 

 

⚠️あの伝説の選手『George Mikan』の記事が作成中との極秘情報がESPNのwojより報告されている。

伝説の選手のキャリアを振り返る歴史的な瞬間を見逃すな!

 

合併された幻の"ABA"

1967年、経営が上手くいき始めていたNBAはリーグ傘下のチーム数を10チームに増やし、ビル・ラッセル率いるBOSの1958年から始まった連覇は1966年に8連覇でようやく終わりを告げ、群雄割拠の時代を迎えようとしていた。

しかしNBAのチームを持たない都市の財界人達は、人気上昇中のプロバスケチームに興味を抱いていた。しかし、新たなチームを作ってNBAに加入するには高額な支払いが必要だった為、チーム作成に興味を持つ者達が集まり、新リーグ発足の声が上がったのだ。

こうして誕生したABAは主にNBAのチームが存在しない都市に創設された11のチームで成り立った。

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そんなABAの初代コミッショナーに招待されたのは1948年から1954年にかけて選手としてバスケットボールの概念を大きく変えたGeorge Mikanである。

コミッショナーNBA創成期の再重要人物を迎えたABAは、ライバルリーグのNBAよりも優れた選手を多く獲得するべくある策を打ち出す。

当時大学卒業生のみをドラフトの対象にしていたNBAに対し、ABAはそれらの制限を設けなかった。これにより高卒選手のドラフト指名がABAでは可能となったのだった。

さらにABAとNBAの間での選手の奪い合いも熾烈で、下手投げフリースローのリック・バリーはNBA→ABA→NBAとリーグを行き来しながらプレイしていた。

他にもジュリアス・アービングジョージ・ガービンなどNBAの歴史に名を残す名選手達の中にも2つのリーグでプレイした選手は少なくない。

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↑ABA初年度ロゴ一覧

 

そんなABAだが、リーグ自体はわずか9年という短さで幕を閉じてしまう。理由としては、いくつかの球団の著しい経営悪化だった。今でこそ大体のNBAのチームは毎試合大勢の観客が訪れており、シーズンを通して空席が過半数を超えるようなチームなど存在しない。だが当時のABAは1万人を超える観客が集まる試合もあれば200〜300人しか集まらない試合もあり、偏っているのは明らかだった。また、1970年頃からABAとNBAの合併を希望する声が出始めていた。

そして最後のシーズンとなった1975-1976シーズンには9つのチームがABAに在籍していたが、シーズン戦11試合目を終えたサンディエゴ・セイルズが将来性が無いとしてチーム解体を決断。皮肉にもセイルズはABAで唯一のエクスパンションチーム(簡単に言うとリーグ側がチーム数を増やす為に創設されたチーム)だったのだが、ABAが水面下で進めていた「NBAとの合併計画」にセイルズは含まれておらず、セイルズの未来は既に見捨てられていた事をオーナーが知り、解体の決断に至ったという。

その少し後にユタ・スターズもシーズン戦16試合目を終えた時点で解散。スターズはABA史上でもかなり成功していたチームだが、前年のABAチャンピオンシップゲーム(プレーオフ)での1回戦敗退に続き、4勝12敗とスタートダッシュに失敗してしまい解散を余儀なくされる。

この時点でABAからは2つのチームが解体され、リーグ全体で7チームとなっていた。

そしてこのシーズン終了後に2つのリーグが合併、そのうちNBAに吸収されたのは現在もNBAに所属しているサンアントニオ・スパーズインディアナ・ペイサーズデンバー・ナゲッツ、ニューヨーク・ネッツ(現在のBKN)の4チームだった。

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ABA自体は9年間と短い歴史だが、所属していたチームは移転や改名を含めると計28チームで、1シーズンで消滅したチームも少なくない。逆にファン目線で見ると、度々名称や本拠地を変更し、選手もリーグを超えて入れ替えながら戦うチームを愛するのは難しかったのかもしれない。

しかしこの9年間のABAの奮闘こそが今のNBAにとって重要だったことはあまり知られていないだろう。

ここからはABAというリーグの特徴を少し紹介しよう。

 

ABAは最後のシーズンを除いて『イースタン・ディビジョン』『ウエスタン・ディビジョン』という2つのディビジョンから成り立っており、各ディビジョン4位以内がプレーオフ進出という制度だった。ちなみに順位が同じ場合は現在のようなタイブレークではなく、順位決定戦を1試合行っていた。プレーオフは4戦先勝方式と現在のNBAと基本的な形はほぼ同じであるが、ABAは最終シーズンのみ7チームでプレーオフを迎えた為、上位5チームがプレーオフに出場。1st Roundは4位と5位だけで行い、その後は通常のトーナメント方式だった。

 

ここまではNBAと類似しているABAだが、リーグの存続を争っていたNBAと差別化を図るためにいくつかの独自の要素を取り入れている。その1つが『スリーポイントシュート』である。

NBAでは1979年に導入されたが、元々はABAがエンターテインメント性を求めて当時のコミッショナーだったジョージ・マイカンが導入したものである。そしてABA消滅から2年後にNBAに導入されている。現在のNBAではカリーを始め3Pに重点を置く選手やチームは多数存在しているが、奇しくもライバルリーグ発祥のルールの1つである。

さらにABAはショットクロックNBAの24秒に対し30秒と大きく時間を伸ばした。最後のシーズンではなんとファウルアウトの制度を撤廃し、6つ目のファウルを犯してもコートに残れる状態となった。何の意味があったのか...

(ただし相手チームにFT2本とポゼッションが与えられる)

 

"ABAが現代に遺したもの"

これまでの記述だと、ABAの遺産は『スリーポイントシュート制度』のみだが、これに関してはNBAのみならず国際ルールに採用されているという点も含め賞賛に値する点だろう。だが、さらに隠れたところにまだ"ABAの遺産"は残されている。

その1つがABAの象徴ともいえる3色ボールだろう。

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マイカンが考案したこのボールは愛国心として赤・青・白を用いたもので、試合中に見栄えが良いものである。

このデザインはNBAのレギュラーシーズンで使用されることはないが、どこかで見た覚えがあるはずだ。

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そう、オールスターのスリーポイントコンテストである。得点が2倍と勝敗を左右するあの貴重なマネーボールとして使われているのである。

 

さらに現在もオールスターで毎年行われているダンクコンテストも、元々はABAが最後のシーズンのオールスターに取り入れた画期的な取り組みの1つである。そしてバスケットボール史上屈指のダンカーとして名を残すジュリアス・アービングが決めたレーンアップ(FTレーンからのダンク)がもし無ければ、ダンクコンテストは存在しなかったのかもしれない。

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このようにABAが9年間の間、NBAに対抗すべく打ち出した独自の要素は結果的にNBAの発展に貢献している。

1つ加えておくと、3色ボールとスリーポイントシュート制度を取り入れたマイカンはバスケットボールというスポーツを選手の立場からも劇的に進化させた人物の1人で、バスケットボールの歴史は発案者のジェームズ・ネイスミスジョージ・マイカンだけでもある程度語ることが出来る。そのマイカンをコミッショナーとして迎えたことはABAにとってはかなり重要なポイントだろう。

なお、このマイカンに関する逸話は別記事でまたいつか紹介するのでお楽しみに(・ω・)

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最後にABA在籍経験のある有名な選手を何人か紹介していこう。

 

1.Julius Erving

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NBAファンなら誰もが聞いたことがあるだろう『Dr.J』の愛称で知られるABA史上最高の選手。ABAのみならずバスケットボール界の発展にも大きく貢献した選手で、あのジョーダンやレブロンが憧れた"元祖スラムダンカー"である。ちなみにレブロンがMIA在籍時に#6のユニフォームだったのは、MIAでジョーダンが永久欠番になっており、#23を着用できない為にもう1人の憧れであるDr.Jになぞらえて#6を着用していたのである。

オールラウンダーで何でもこなしていたアービングだが、特筆すべきはやはりその滑空能力だろう。先述した通り、ABA最後のシーズンでは初開催のダンクコンテストでレーンアップを決め、ABA消滅後にNBAでプレイしてからも華麗な滑空で観客を魅了し、後に大スターとなるジョーダンやドミニク・ウィルキンスら多くのバスケットボールファンを虜にしていた。

芸術品と称される彼の圧倒的なジャンプ力は『時計を見て家に電話をかける時間がある』と言われていた。

そんな彼のバスケ界への貢献として大きいのは彼の性格だった。とにかく紳士的だった彼とは相反し当時のNBAは薬物問題が蔓延し、スター選手が薬物によってキャリアを崩すパターンは少なくなかった。しかしアービングはいつでもメディアに対して丁寧に対応し、試合後にはアリーナに残り続けファンのサインなどに対応し続けるなどファンやメディアのみならず選手からも尊敬されていたという。さらにメディアとの対応中に自チームの新人や無名の選手らも絡めて知名度を上げるのに一役買ったり、スランプに陥った選手に自信を取り戻させるべく自分の得点チャンスを犠牲にしてその選手にチャンスを与えるなど、かなりの人格者だった。そんな彼によってリーグの汚いイメージは徐々に払拭され、人気向上のきっかけとなった。

アービングの偉大な業績に関してはまた別記事でまたいつか...(・ω・)

 

2.David Thompson

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この選手に関しては私には知名度のレベルがよく分からない。もしかすると昔の選手に疎い方には初耳レベルかもしれない。彼もABAの歴史の中では一際輝いていたスター選手である...が、先ほど紹介した薬物問題が蔓延した時期の選手であり、まさに、その薬物によってキャリアを滅ぼした1人である。

"スカイウォーカー"と呼ばれた彼は193cmのSGながら『バックボードの上に置いたコインを取ることができた』という逸話を持つ選手で、垂直跳び122cmという記録でギネスブックにも掲載されている。

そんな彼のシグネチャースキルとも呼べる『アリウープ・レーン』をご存知だろうか?当時のNCAAはダンクを禁止していたのだが、このルールに対抗するべく編み出されたトンプソンにしか出来ない技で、チームメイトがリング周辺に投げたアリウープパスをトンプソンがキャッチし叩き込むのではなく、リングの中心に上手く落とすというものである。

つまりリングより上からリングの中心を狙ってボールを落とすのである。これはバックボードの上に手が届くトンプソンにしか出来ない技で、チームのオフェンスパターンとして取り入れられていた。

ちなみに禁止ながら1度だけ彼はダンクを大学時代に決めており、もちろん得点は無効となりコーチの指示で即交代となったが、観客は大盛り上がり、得点せずとも会場の雰囲気を一気に変えた。

そんなトンプソンもジョーダンを魅了した1人であり、ジョーダン自身が殿堂入りとなった際のプレゼンターにトンプソンを選んでいる。

トンプソンは当時のルーキーのプロスポーツ史上最高額契約を塗り替えており、ダンクコンテストではアービングのレーンアップに対抗して360°を決めるなど、華々しいキャリアを送っていた。

しかしNBAを侵食する薬物問題に取り込まれたのをきっかけにアルコール依存症にもかかるなど、一気にキャリアを崩し始めていた。練習の遅刻や欠席が増えながらもオールスターには選ばれていたが、その矢先に足首の靭帯を損傷。

シーズンのほとんどを欠場していた彼が薬物・アルコールにさらに取り込まれるのはやむを得なかった。

そして1983-1984シーズン中、アウェイ戦後に泥酔状態で階段を踏み外し左膝を故障。そこからコートに戻る日は2度と来なかった。

彼のキャリアは時代さえ違えばさらに輝いていたのかもしれない。

 

3.George Gervin

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表情を変えずに静かに、しかし心の内で闘志を燃やすことから『アイスマン』と呼ばれた名選手。ABA時代にジュリアス・アービングとチームメイトにもなったことのある彼はスパーズの歴史の中でも"提督"ロビンソンやダンカンと並んで非常に愛された選手である。フィンガーロールを得意とし、NBA史上4人しかいない得点王×4を達成した内の1人で殿堂入りも果たしている。SASのイメージが強いが引退前に1シーズンだけCHIでもプレイしている。

 

4.Moses Malone

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↑※右下に写っているフックシューターではありません

NBA史上屈指のタフガイとして知られる彼もABA経験のある選手の1人である。ABA経験を持つ最後のNBA選手として1995年までプレイしていた。

高校時代にはチームを牽引し50連勝を達成するなど名を知らしめると、高卒でABA入り。身長は208cmとセンターとしては高くないものの全盛期は他を圧倒する支配力を誇り、特にオフェンスリバウンドに関してはABA時代の2シーズン分の記録を除いても史上最多の通算6731本(キャリア平均5.1本)ととにかく強かった。ジュリアス・アービングと組んでいたPHI時代には『全勝優勝宣言』を行い、惜しくも1敗したものの圧倒的な強さで優勝している。

2015年にホテルにて意識不明の状態で発見され、永眠。60歳と早すぎる偉人の死去だった。

 

5.Rick Barry

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NCAA、ABA、NBAの全てで得点王となった唯一の選手で、とにかく得点力に関しては追随を許さない。201cmのSFとしては高いクイックネスを併せ持ち、加えてシュートのバリエーションも豊富で、フック・フェイダウェイ・セットシュートなどあらゆるシュートを左右どちらの手でも放つことができた。

しかし彼がファイナル平均36.3点で歴代1位なのは技術だけが理由では無い。バリーはとにかく逆境に強く、あるシーズンで地元ファンがPO進出すら期待していなかった状況からファイナルに進出。ファイナルの相手はリーグ内でダントツ首位の成績を残していたにも関わらず、スウィープで勝利。この1975年ファイナルの出来事は『NBAファイナル史上最大の番狂わせ』とされている。

ただ逆境に強い反面、あまりにも自己中心的で敵味方関係無く怒鳴り散らすことから『バリーを国連に送り込めば第三次世界大戦が起こる』とまで言われた。

ちなみにバリーと言えば下手投げフリースローが印象深いが、これはバリーが編み出したフォームというわけではなく、1940年代頃まではむしろ下手投げフリースローが主流だった。

 

いかがでしたか?

ABAについて少し詳しくなったあなたはまた少しNBAオタクに近付いたでしょう(・ω・)

これを言うと今までの話はなんだったのかとなるのですが、実はABAは現在も運営しています!

 

と言っても少し複雑なのだが...

今回の記事に書いたABAと同じ名前のリーグで、1999年に設立。NBA傘下のDリーグ(来季からはGリーグに改名)と似たような存在で、NBA入りの機会を窺う選手が多く在籍している。設立以降、着実にリーグを拡大されておりアメリカのみならずカナダやメキシコにもチームが存在し、現在84チームが加入している。

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なんとチーム数の多いこと...

ロゴを見ても分かる通り、それとなく名残りのある雰囲気にしているのが良いですね。

 

それにしてもやはり昔の勉強は良いですねぇ。歴史が深い。

特にジョージ・マイカンは星の数ほどエピソードがあるので、次かその次くらいに書きます(・ω・)

 

ということで今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

そして読破おめでとうございます(・ω・)

 

では、また──────

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"The Tidbits"

『The Tidbits』とは?

 

Tidbitsとは簡単に訳すと「ちょっとしたこと」と言った感じの単語で、要は豆知識です。

今回はNBAのレジェンド達の豆知識を少し紹介するだけの、

あまりにも無益な記事ですよ(・ω・)

 

1.Shaquille O'neal

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ユーモア溢れる性格とは裏腹にゴール下での支配力においては歴代最高クラスのセンターだったシャック。そんな彼の自宅に『シャックの親戚だ』と名乗って訪れる人が多数出現。しかしシャックは親戚を名乗る者が頻繁に訪れても追い返すことなく、留守中は自宅を開けっ放しの状態で大量の食料品を置いていたそうだ。

なんという器の大きさ...

 

さらに彼が大きいのはその器だけではない。バッシュのサイズも規格外である。

シャックの靴のサイズはなんと...

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41cm...!!!

シャックと同じスーパーマンの血が流れているドワイト・ハワードでも37cm、現役最高選手のレブロンが35cmである。

 

ちなみにそんなシャック、UFC 2010という格闘技のゲームで隠しキャラとして登場している。

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↑なんとなく強そう。

 

2.Larry Bird

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当時『白人の希望』と呼ばれた史上最高のSFの1人であるラリー・バード。

そんな彼と同じ名前を持つ有名な生物がいる。恐らくご存知の方は多いだろう。

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こちらがそのラリー・バードである。

確証を得られる記事が見当たらなかったのですが、僕の記憶ではTwitter創設者がバードのファンだったからそう名付けただけだとか。

現在はこの鳥の名前は改名されており『Twitterバード』となっている(そのまま過ぎる...)。

 

ちなみに2005年に強盗と殺人未遂で逮捕されたある男が懲役30年を言い渡された時に「懲役を33年にしてほしい」と申し出たという。理由は...

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皆さんなら分かりますよね(・ω・)

(ちなみにその懲役を3年増やして欲しいという希望は叶えられたらしい) 

3.Glenn Rivers

『グレン・リバースって誰?』と思った方が今いると思います。

しかし、そう思った方の80%以上は実は知っているはずです。顔を見れば『あ、この人知ってる!』となるはずです。

 

 

↓↓↓↓↓

 

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『この人ってドック・リバースじゃなかった?グレン?』となった方、確かにドック・リバースと呼ばれていますが残念。本名じゃないんです。

本名は『Glenn Anton Rivers』。

ドックというのは昔 リバースが「Dr.J(ジュリアス・アービング)」のTシャツをよく着て練習していたことからついた愛称なんです。

 マジック・ジョンソンといいネネといい何故そんな愛称のままで登録されるのか...笑

ちなみに今回の記事のレジェンドの中に並べて紹介しましたが、正直 選手としてはもちろんコーチとしてもそこまでレジェンドではないんですよね...

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さぁ今回の記事、ラストを飾るのは...

バスケ界の神様

Michael jordan !!!!

僕の記憶ではLeBlog初登場です。

 

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とにかく有名なマイケル・ジョーダン

バスケなんて全く知らないという人でさえ

ジョーダン=バスケ選手

ということだけは知っているだろう。

だが、神様と呼ばれる彼でさえ完璧ではなかった。ジョーダンにも批判されていた時期がある。

 

優勝したチームがホワイトハウスに招待されるのは皆さんご存知だろう。

ジョーダンも例外でなく優勝した際に招かれている。しかし、彼は行かなかった。当時の大統領だったブッシュには以前会ったことがあるという理由で断ったのだ。するとマスコミ達からは「礼儀を欠いている」と批判の声が続出した。

さらにジョーダンはゴルフとギャンブル好きでも有名。試合のある日でもゴルフも行っていたらしく、ギャンブル好きだった事もありゴルフで賭けをしていた事が報じられるとこれも批判を浴びている。

 

さらにギャンブルに関してはもっと大きな批判を浴びている。ただでさえ一般的な範囲を遥かに上回る巨額を賭けていたことで非難されていたジョーダンだが、彼のギャンブル相手の中には後に殺害されてしまった麻薬売人もいた。その売人の遺品からジョーダンの署名入り20万ドル小切手が発見されると大きなバッシングを食らった。

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そんな批判も食らってきたジョーダンだが、神様と呼ばれるまでに上り詰めた彼と言えばやはり「負けず嫌い」なその性格だろう。とにかく負けず嫌い。

趣味だったゴルフで負けてしまった時には、再戦を申し込む為に相手の家に夜中に押しかけるほどだ。

そんな彼を見たとあるスポーツ心理士はジョーダンの睡眠時間の短さと練習の熱量に「彼は狂乱状態にある」と思ったという。その心理士曰く一般的な有能選手はゾーンに入った経験があると『ゾーンに入りたい』という心理からもう1度その状態に到達するのは簡単ではないうえ、自らゾーン状態を維持することは出来ないという。しかしジョーダンは常にゾーンに近い精神状態で、完全なゾーンに入ると逆にその状態を自ら維持出来る超人的な能力を持っているらしい。

何とも恐ろしい...

 

ちなみに『MJ』という愛称で有名な彼は、もう1人の『MJ』と共演している。

『KING OF POP』と呼ばれるあのマイケル・ジャクソンである。

彼の『JAM』という曲でMVに出演しているのだ。

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音楽界とバスケ界のトップの共演、これは流石に豪華すぎる。

数年前のメッシとコービーが共演したあのCMのようなものだ。

 

Michael jordanに関しては他にも山ほどのエピソードがある。

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またいつか、気が向いた時に紹介したいと思っています...

NBA史上の中でもある意味飛び抜けてキャラが濃い選手であると僕は思っている。これほどカッコよすぎる選手は他にいないだろう。バスケへの愛情、勝利への執着心、意志の強さ...

そんな彼でさえ意外と批判を浴びていたのかと知って頂けたなら今回の記事にも若干の価値が生まれたのだろうか...笑

 

このTidbits記事、これもシリーズ化できたらなと思っております。

 

最後に。

 

今回の記事を書くに当たって、とある本より一部内容を含ませて頂いています。

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 スポーツ心理士のくだりはこの本から得た知識で書いています。700ページ近くある本ですが、オススメです。

まだ全然読み始めて間もないですが、オフシーズン中に読み終えたいなと思ってます。笑

 

 

どうでしたか?

今回はいつも以上に緩めの内容(&短め)な記事でしたが、知らない方にとっては楽しめたのではないでしょうか。

そもそもシャックやバードを知らないという方は少しNBAの勉強を(^^;

 

 

今回も読破おめでとうございます。

そして、最後まで読んで頂きありがとうございました。

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【号外】優勝を求めるKD

2011-2012シーズン、Game1を制し優勝まであと3勝にまで迫ったKD。

しかしここから4連敗で優勝を逃してしまったのだ。

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カンファレンスファイナルではSAS相手に最初の2戦を落とすもそこから怒涛の4連勝。その勢いをホームで見せつけたOKCだったが、試合毎にKDのプレイに対応し始めたLeBronが徐々にKDの歯車を狂わせていく。

さらにチームメイトのハーデンはファイナルを通して絶不調で5試合中3試合が一桁得点。

このシーズンはアシスト以外のスタッツ4部門でキャリアハイを叩き出しており、史上最年少の3年連続得点王となったKDを擁しても3KINGSを擁するMIAには勝てなかった。

あの3KINGSが今のNBAの風潮(昨季ファイナリストにキャリア全盛期のMVP級選手が加わるという事態)を作り出したのだと私は本気で思う。

私はLeBronを応援するファンの1人だが、できればCLEに居続けて欲しかった。しかし、LeBronが勝てる環境に身を置くことに対してどうしても喜びを感じる。それは恐らくKDファンも同じ心境だろう。自分の応援する選手が勝てる環境に移ることは余程極端で無い限り喜ぶはずだ。

増して僕がKDを擁護したくなるのは2012年ファイナルでLeBronを中心とした豪華なメンバーで圧勝しているからである。中でも僕は特にこの下の写真のシーンが鮮明に記憶に残っている。

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この当時は『細すぎる』『フィジカル面で弱い』と一部から叩かれながらも、長身と長めのウイングスパンを生かした得点力はリーグ随一。しかし思うように点を取れず、味方のサポートも乏しく、孤軍奮闘(ウエストブルックも奮闘していたがチームのリズムを乱すような暴走がとにかく多かった)していた彼の状況とこの悔しがる姿に『いつか優勝してほしい』と私は思うようになった。

 

この2011-2012シーズンが始まる前のオフ、LeBronとKDは"Hell week"と呼ぶワークアウトを行っていて、この当時恐らくリーグNo.1とNo.2であった2人がお互いの向上を求めて共に汗を流している。

MIAが優勝して終えたシーズン後にはオリンピックでLeBronと共にプレイし、そしてこのオフ中にも"Hell week"を行っている。

 

最近では取り沙汰されることはないがKDも『練習の虫』と呼ばれるほど熱心な選手の1人である。

今ではすっかりリーグ屈指の嫌われ者となってしまったが、LeBronもMIA移籍時には同様の状況であった。

今やLeBronの第2の相棒となったラブも、2011ファイナルでMIAがDALに負けた時には「MIAが負けて皆喜んでいる」とコメントしている。

自分がオールスター級であったとしても優勝候補にすらなれないチームに長く居ると、それほど心境に影響を与えるのだろう。

私もKD移籍時には『優勝候補のチームに移籍して優勝したらそれで満足か』と思っていたが、彼の過去を振り返ると多少なりとも彼の決断を理解できる。

そして優勝を経験し価値観に変化が生まれた時、OKCに帰還しウエストブルックと共に優勝したいという目標を掲げる日が来るかもしれない。

無論、私が今年勝ってほしいと思っているのはCLEだが(・ω・)

 

Let's Go Cleveland !!!!!

(and KD)

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Team History "GSW"

チームの歴史を紹介するLeBlogの新シリーズ第1弾は現在NBAの先頭に立つGSWです。最近NBAファンとなった方も、NBAならある程度知っているという方も、GSWを起源から現在までの流れを知ることで、また少し見る目が変わるのではないかと思います(^ ^)

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Golden State Warriorsは創設1946年、つまりNBA設立時から存在する11チームの1つである。

(正式には設立当初はNBAではなく、BAAというリーグだった)

創設時の本拠地はフィラデルフィア、その為 Philadelphia Warriorsだった。そしてWarriorsの由来は実はこのフィラデルフィアが関係している。

独立戦争の際にフィラデルフィアは重要な土地であり、戦争を戦った戦士達への敬意を込めて"Warriors"となったのである。

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Philadelphia Warriorsのロゴ

 

そしていよいよ始まったBAA最初のシーズン、11チームによる争いの末、頂点に立ったのはこのWarriorsである。

実はこの創設当時のWarriorsには、あまり知られていないがNBAの歴史を語る上で欠かせない人物が1人いる。

それがジョー・ファルクスである。

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ご存知だろうか?

殿堂入りも果たしている名選手で現役時代『ジャンピング・ジョー』と呼ばれていた彼は、当時まだセットシュート(地面に足をつけたままシュートを放つこと)が主流だった中で彼はジャンプシュートを使い得点を量産。この空中でシュートを打つ姿にファンだけでなく選手達にも衝撃を与え、ジャンプシュートが普及するキッカケとなった。

ここから少しの年月が経ち1956年。

※細かく書くとキリが無いうえこの時代の情報が少ない為に省略。

この時の中心選手がニール・ジョンストンという当時リーグNo.1センターとして後に殿堂入りしている選手と、もう1人がポール・アリジンという選手である。

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このアリジンがまた先ほどのファルクスと同じくジャンプシュートを先に取り入れていた選手なのだが、アリジンがジャンプシュートを使うキッカケがこれまたすごい。

高校生の時に監督から戦力外とされてしまい校内や教会などの小さな独立チームに複数所属してプレイしていた彼は時にダンスホールでプレイすることもあった。滑りやすいダンスホールでのセットシュートが非常に難しく危険だった為にジャンプして空中でシュートを打つようになる。そしてそのまま彼は会場がダンスホールで無くても試合中のシュートは全てジャンプシュートで打つようになる。こうして誰から教わったわけでも聞いたわけでもなく、独自にジャンプシュートを生み出したのだった。ちなみに大学時代には開花し得点を量産、とある試合では85点を記録したという。

そしてアリジンとジョンストンという強力な2人を擁したWarriorsは球団史上2度目となる優勝を果たす。

 

その優勝から3年後、カンザス大でその名を知らしめた怪物がNBAにドラフト入りを果たす。

Warriorsに指名された彼の名は

Wilt Chamberlain

あの伝説の巨人である。f:id:LBJ1107ryo:20170529201453j:image

と、ちょっとここでドラフトの豆知識。

実は当時のNBAには「地域指名」という制度があり、チーム本拠地から50マイル圏内の大学出身者を指名できるというものであった。チェンバレンはこの地域指名によりWarriorsに加入している。

しかしここで疑問が浮かぶ。

カンザス大というのはカンザス州にあり、Warriorsの地元フィラデルフィアペンシルベニア州。地元指名の条件はチーム本拠地から50マイル圏内であること。カンザス州からペンシルベニア州までは約1200マイル離れている。つまり地域指名するには1100マイル以上オーバーしているのだ。

が、ここで当時のWarriorsのオーナーであるエディー・ゴッドリーブは何とかしてチェンバレンを獲得したいという一心でチェンバレンフィラデルフィア出身であることを訴え強引に指名する。リーグもそれを認め、チェンバレンNBA歴史上唯一の『出身地を理由に地域指名された選手』となった。

ちなみにチェンバレンを指名する7年前、ゴッドリーブがWarriorsを買収した際の金額は25007ドル。そしてこのチェンバレンは新人ながら当時歴代最高金額の30000ドルで契約している。

これだけでも如何に彼が期待されていたかが伺えるだろう。しかしこの大きすぎる期待にチェンバレンは120%で応えるのだった。

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デビュー戦、いきなりの43点 28リバウンドを記録。シーズン中に50点超えを7回達成し、リーグ史上初のシーズン平均30点超えを果たした(チェンバレンのルーキーイヤーは平均37.6点で、それまではボブ・ペティットの平均29.2点)。

ルーキーイヤーにして得点王・リバウンド王・新人王・シーズンMVP・オールスターMVPの5冠を達成する。チームも前季の32勝から49勝と成績を伸ばし、チェンバレンの影響からかリーグ全体の1試合平均得点が108.2点だった前季から115.3点と大幅な伸びを見せている。

個人賞を新人にしてほとんど獲得したチェンバレンを擁するWarriorsだったが、POではビル・ラッセ率いるセルティックスに2勝4敗で敗退してしまう。

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そして翌年、Warriorsの大黒柱であるチェンバレンはまたしても得点王とリバウンドを獲得する。しかしPOではナショナルズ(現76ers)にスウィープされ敗退。

チェンバレンのデビューと入れ替えで引退しWarriorsのHCをしていたジョンストンだが、この時既にチェンバレンとの関係が悪化しており、翌シーズンにWarriorsは新HCとなるフランク・マクガイア(NCAA決勝でチェンバレン率いるカンザス大を破った時のノースカロライナ大のHC)を迎え入れる。

するとこのHCの指揮によりチェンバレンは自身の才能を最大限に発揮、シーズン平均50.4点 25.7リバウンドという桁違いの大記録を叩き出す(当然のように3年連続得点王&リバウンド王)。

POでも前季にスウィープという屈辱を受けたナショナルズ相手に3勝2敗と雪辱を晴らす。

しかしここで再びセルティックスが立ちはだかる。3連覇がかかっていたセルティックスとのシリーズは最終戦までもつれるも2点差で敗退。RSで毎試合50点を取るチェンバレンを擁しても優勝できなかったことに批判の声が続出、シーズンMVPを獲得したのもシーズン平均50.4点のチェンバレンではなく60勝を達成したセルティックスの大黒柱であるビル・ラッセルだった。

 

オフになるとチェンバレンを獲得して以降チェンバレンをチームの中心として扱い続けていたゴッドリーブオーナーがチームを売却。サンフランシスコの実業家の手に渡るとチームも本拠地をサンフランシスコに移動しサンフランシスコ・ウォリアーズに改名。しかし、この本拠地移動がチームを崩壊に導くこととなる。

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フィラデルフィアに家族がいるアリジンは引退、シーズン中にホームシックになったトム・ゴーラという選手はトレードを要求し、マクガイアHCは1年目にして解任。代わりにNBAでのHC経験の無いボブ・フィーリックが着任する。

チェンバレンは前季に劣らない素晴らしいスタッツを残し4年連続の得点王&リバウンド王となるもアリジン達が抜けたWarriorsはPOを逃してしまう。

するとオフには早速フィーリックHCを解任。代わりに迎え入れたアレックス・ハナムは選手兼監督として1958年に当時無敵と言われていたセルティックスを破って優勝した非常に優秀なHCだった。

チェンバレンにとってNBA入り以降ハナムHCほど優秀なHCに出会うのは初めてであり、これまでのHCと違いチェンバレンに物怖じすることなく意見を伝えることができるハナムHCはチェンバレンと度々口論しながらもプレイスタイルの変化を要求。徐々に変化を見せたチェンバレンはキャリアワーストの平均得点(キャリアワーストながら36.9点で得点王獲得)となるもアシスト数を大幅に伸ばした。

またこのシーズン、後々殿堂入りを果たすネイト・サーモンドが加入している。

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↑Nate Thurmond

百戦錬磨のハナムHC、優秀な新人サーモンド、プレイスタイルを変化させたチェンバレンが率いるWarriorsはPOに復帰、そのままファイナル進出を果たす。

しかし、このファイナルで立ち塞がるのはまたしてもセルティックスだった。

悲願の初優勝に挑んだチェンバレンだが1勝4敗で敗退。セルティックスはこの時点で5連覇を達成したのだった。

優勝を目前にしてまたしても阻まれたWarriorsは翌シーズン財政難となり、高額な給料を必要とするチェンバレンをついに手放す決意をする。チェンバレンシクサーズにトレードしたWarriorsは見返りとして3人の選手と15万ドルを手にした。

チェンバレンを失ったWarriorsは17勝63敗と成績を急降下させるもオフのドラフトでは2位指名でリック・バリーを獲得。ドラフト当時は度々乱闘を起こす気性の荒さに批判ばかりされていたバリーだが、ルーキーながらシーズン平均25.7点を記録しチームも35勝を記録。POこそ逃したものの、新人王となったバリーがチームの中心を担うWarriorsは新HCとなるビル・シャーマン(セルティックス黄金期を支えた選手の1人)の指揮の下その翌年にPOに出場。さらにチェンバレンの連続得点王回数を7で止めたのもバリーだった。

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↑FTが下手投げな事で有名なバリー

シーズン平均35.6点を記録したバリー率いるWarriorsの勢いは止まらず、見事にファイナル進出を決める。そしてこの年、長かったセルティックス王朝に終止符を打ったのがチェンバレン率いるシクサーズだった。Warriorsを大きく上回る68勝を記録していたシクサーズを相手にバリーは第3戦でファイナル歴代2位となる55点を記録する。シリーズ平均40.8点という活躍を見せるもファイナルは2勝4敗で優勝には手が届かなかった。

そしてオフとなる1967年、Warriorsにとって厄介な出来事が起きる。

NBAのライバルリーグとなるABAが誕生し、ABAはNBAの選手やファンを奪おうと試みる。

Warriorsにとって最悪の出来事はサンフランシスコ近郊のオークランドを本拠地とするオークランドオークスがバリーの引き抜きを画策したことだった。

オークスのオーナーは巨額の契約金に加え、バリーの大学時代の恩師をHCとしてオークスに迎える。Warriorsもオークスと同額の契約を提示するが、当時WarriorsのHCだったシャーマンとバリーの関係が悪化していたこともあってバリーはABAのオークスに移籍することを決断した。

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↑逆に今の時代にこんなロゴのチームがいて欲しい気もする

リーグ屈指の点取り屋を失ったWarriorsはここから思うように成績が伸びず、1969-1970シーズンにはついにPOを逃してしまう。

しかしそんなWarriorsに1972年、6年ぶりにバリーが帰還する。当時既に3Pラインを採用していたABAでプレイしていたこともあり、バリーは以前よりもシュートエリアを拡大させ、さらにパスセンスも向上させていたが、代わりに膝に爆弾を抱えていた。復帰年の1972-1973シーズンではキャリアワーストの平均22.9得点となったものの自己最高となる平均4.9アシストを記録。

翌年には47勝を記録したWarriorsが60勝をあげたカリーム・アブドゥル=ジャバー率いるバックスを破るアップセットを見せるも、2ndラウンドで1勝4敗で敗退。

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↑当時チェンバレン以来の衝撃を走らせたジャバー

その翌シーズンには主要スタッツの4部門で10位以内に入りオールNBA 1stチームに選出。しかしチームは前年より3勝少ない44勝でPOを逃してしまう。

 

するとここでWarriorsはこの状況を打破するべく大胆な行動に出る。

ドラフト入り以降チームを支え続けたネイト・サーモンドと前シーズンで全試合先発を務めていたカジー・ラッセルを放出、代わりに得たのは放出した選手に見合うほどの選手ではなく、Warriorsは成績を落とすだろうと予想された。

そんな中で始まった1974-1975シーズン、批判を覆すことに燃えるタイプであったバリーは30歳ながら絶頂期を迎え、平均得点リーグ2位 平均アシスト 6位に加え平均スティールとFT%でリーグ首位となる。48勝を記録したWarriorsはPO出場のみならずディビジョン1位を獲得し、見事に第1シードを獲得。当時のHCであるアットルスが導入した10人の選手をローテーションに組み込んだオフェンスによってチーム平均得点はリーグ1位(108.5点)を記録している。

POではカンファレンスファイナルこそ第7戦までもつれたものの見事にファイナル進出を決める。

しかし、このWarriorsの相手はリーグ60勝を記録したワシントン・ブレッツであった。ウェズ・アンセルドとエルヴィン・ヘイズを擁していたブレッツ相手にWarriorsはRSで1勝3敗と負け越しており、劣勢との声が大半であった。

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↑後にこの2人は殿堂入りを果たしている

 

さらにこのファイナルでは会場の都合上で通常フォーマット(2-2-1-1-1)方式ではなく、1-2-2-1-1という特殊な方式となった。これはホームコートアドバンテージを持つブレッツが初戦はどうしてもホームコートで行いたいという希望によるものだった。

ワシントンで行われた初戦、先発・ベンチ共に活躍したWarriorsが勝利。予想外な初戦を落とす事態となったブレッツはホームコートアドバンテージを奪われ、さらにここから2戦を敵地で落とし絶体絶命の危機に晒される。

そして3連敗でホームに戻ったブレッツは3試合で平均35点を取っていたバリーを抑えるべく1Qからハードファウルを仕掛ける。短気で乱闘を起こしがちなバリーもこれに対し激怒。しかしアットルスHCが咄嗟の判断でバリーの前に入り食ってかかるという『バリーの保護』に出る。これによりアットルスHCが退場処分となるが、これによりチームは奮起。

前半の14点ビハインドを跳ね返し見事に勝利、敗退が予想されていたWarriorsはあまりにも想定外なスウィープでの優勝を飾ったのだ。

バリー自身が『NBAファイナル史上最大のアップセット』と語るこのファイナルも含め、PO進出を疑われていたWarriorsがスウィープで優勝したことは誰にとっても予想外であった。

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そしてここでこのLeBlogにも予想外な事態が起きている。

長すぎる。長すぎるのだ。

約6000文字となったこの時点でまだ20年しか進んでいない。

1975年を今終えたのであと40年ほど歴史は残っている。

ここまで読み続けてくれている方、本当にありがとうございます。書いている価値があります。

 

ご安心を。ここからは少しペースを上げていきます。というより正確に言うと、ペースが上がるんです。

Warriorsは長い低迷期に突入するのですから...

 

優勝後である1975-1976シーズン、リーグ1位となる59勝という成績を収めたものの、カンファレンスファイナルで敗退。このシリーズ中にチームメイトとの口論があったバリーは戦犯として指摘され、批判の対象となる。

そして翌シーズンにバリーがチームを去って以降、チームは成績を上げることが出来ず、リーグの下位層もしくは中堅のあたりを彷徨い続ける。

そして迎えた1985年、後に名を馳せるクリス・マリンを7位指名。1988年にミッチ・リッチモンドを5位指名。1989年にティム・ハーダウェイを14位指名。

得点能力に長けていたこの3人はドン・ネルソンHCの指揮の下でWarriorsをリーグNo.1の得点力を持つチームに変化させる。そして当時有名だったラッパー「RUN-D.M.C.」と掛けて

RUN TMC』と呼ばれるようになった。

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しかしPOでは思うように結果を残せず、1991年のシーズン中にリッチモンドがトレードされ『RUN TMC』は解体される。95年にはネルソンHCもチームを離れる。

ここから低迷を続けたWarriorsはネルソン以降HCの交代を繰り返し、97年にPJ・カーリシモが就任。

しかしこのカーリシモは暴言を吐く癖があり、この時のチームのエースにして暴君のラトレル・スプリーウェルと衝突、そして起きたのがあの有名なスプリーウェルがカーリシモに行った首絞め事件である。

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これにより無期限停止処分を受けていたスプリーウェルはNYKへトレード。

 

恐らくここからはリアルタイムで見ていたファンの方も増え始めると思うので、さらに省略していきます...

 

1998年ドラフトにてアントワン・ジェイミソン、2001年ドラフトでジェイソン・リチャードソンとギルバート・アリーナスを獲得した。

しかし、アリーナスとリチャードソンは再建の中心として期待されていたものの移籍。そして2004年にはRUN-TMCの一角であったマリンが副社長に就任。トレードでバロン・デイビスを獲得するなど再建を目指していたがネルソンHCを解任以降1度もPOに辿り着けないWarriorsはネルソンHCを再び迎え入れる。

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するとネルソンHCの再就任初年度、13シーズンぶりにPO出場を果たす。

1stラウンドではDAL相手に7試合制導入以降初の第8シードが第1シードを破るアップセットを達成。

しかしこれ以降5シーズンに渡ってPOを逃し続ける。

だが、この5シーズン(2007-2012)の間こそまさに現GSWへの布石である。

 

09年ドラフトでは7位指名でステフィン・カリーを指名、さらに11年ドラフトの11位でクレイ・トンプソン。後にスプラッシュブラザーズとなる2人はここで入団している。

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そしてマーク・ジャクソンがHCに就任。

さらに12年ドラフトでは後に球団史上屈指の掘り出し物となるドレイモンド・グリーンを35位で指名。

そして2012-2013シーズンにPO復帰を果たしている。

今でこそ定着しているアウトサイド中心のオフェンスやファーストブレイクでの3Pだが、当時はまだ『アウトサイド主体では勝てない』という概念が存在しており、この概念を打ち破ったWarriorsの戦術はNBAの歴史に間違いなく残るだろう。

 

と長々と書いてきたWarriorsの歴史ですが、如何でしたか?

 2017/5/29現在 KDの加入よりただでさえ少なくなかった批判が更に増したGSWですが、過去を見て何か感じませんでしたか?

チェンバレンの時代、バリーの時代、RUN TMCの時代、そして現在のスプラッシュブラザーズ。

僕は前々からずっとWarriors=攻撃的な戦術の球団と勝手にイメージしています。笑

 

最近NBAを見始めた方にとっては馴染みの無い名前ばかりで読みづらい記事だったかも知れませんが、過去を知ることはすごく大切だと私は思っています。

もし、チェンバレンがWarriorsにいなかったら?ゴッドリーブがチェンバレンを強引に指名しなかったら?ゴッドリーブがチェンバレンをチームの中心として自由にプレイさせていなかったら?

1試合100得点の大記録も、シーズン平均50点超えも、無かったかもしれません。

すごく単純な考え方ですが、チェンバレンが黄金期をもたらさなかったら、今紹介してきた黄金期と低迷期の時期が入れ替わっていて、カリーはGSWではなく他のチームに指名されていたかもしれません。

今回の記事を始めに残り29チームの歴史も今後書きたいと考えています。

 

ということでLeBlog史上初の8000字を超えたこの記事を終えたいと思います。

最後まで読んでくださった方は本当にありがとうございます。

サーっとスクロールして今ここに急に辿り着いた方も一応ありがとうございます(・ω・)

 

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